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コラム

No.01 合理的配慮 vs 非合理的配慮

昨年の4月に、『障害者差別解消法』という法律が施行されました。
この法律には、障害があることによって差別を受けることのないよう、さまざまな内容が盛り込まれています。
中でも『合理的配慮』が公立施設(学校、市役所、図書館など)では義務化(民間は努力義務)されたということが大きな目玉でしょう。
法律の施行後、約1年が経過した現在、全国の公立学校(特に小学校!!)では、どのようなかたちで合理的配慮が実施されてきたのでしょうか。
個人的に非常に興味のあるところなのですが、具体的な実例が、情報としてほとんど入ってこないのが残念です。
僕のググり方に問題があるのかなぁ…

ちなみに、合理的配慮とは、障害のある人(発達障害も含む)が、その障害特性によって学校生活(社会人の場合は職場など)に障壁を感じている場合、その障壁を可能な限り取り除くために実施する合理的な配慮のことです。
あくまでも合理的に… というところがミソで、均衡を失しない範囲であったり、過度の負担を課さないレベルにおいて実施する配慮というのが前提となっています。
つまり、障害者からの要望を全て叶えることを保障するものでは無いということですね。
例えばエレベーターを設置するなど、高額な費用がかかるものに関しては、ほとんどの場合は実現不可能です。
そのような場合においては、きちんと話し合いを行ない、双方(障害者本人と学校の責任者など)が納得のいく着地点を見つけなければなりません。
いずれにしても、障害者本人から合理的配慮の要望があるにもかかわらず、一切対話にすら応じないということは差別にあたり、それは法律でも禁止されているということになります。
配慮を法律で定めるということ自体、なんとも悲しいことですが、ここまでしなければ、無自覚の差別を完全に無くすことはできないでしょう。
合理的配慮の実施を問題視していたり、不安に感じている学校があるとすれば、その学校の中では既に、無自覚の差別が蔓延していると自覚したほうがいいです。
古い価値観から抜け出せずにいる学校側の意識を変えていくためにも、これは確実に意義のある法律だと思っています。
外出先の公共施設などにおいても、偶然の善意によって配慮がなされてきた時代は終わり、当然の権利として配慮を受けることができる(現在のところ障害者だけですが)というのは心強いことでしょう。
実際に社会が対応できているかどうかは別ですが…

さて、学校現場においての合理的配慮の実例が、なかなか耳に入ってこないのは、保護者側が障害者差別解消法の存在を知らないというケースもありそうです。
親御さんの話を聞いていると、個人的にそう思ってしまう場面は結構あります。
学校側としても、保護者側が合理的配慮の存在を知らないことに、「ラッキーチャチャチャ、ウー!」と思っている可能性も否定はできません。
障害のある子ども達に、学校がどのように向き合っていくのかは、地域や学校によって、取り組みに大きな差がありそうです。
学校側が、建前抜きで、本当にインクルージョンな環境の実現を目指しているのか、本当にダイバーシティを目指しているのか、そういった学校としての考えが浮き彫りになるような事例が、今後はますます増えていくのではないでしょうか。

そもそも学校は、いろんな生徒が来ることがあらかじめ想定できるわけで、バリアフリー環境の構築なんかは、今すぐにでも取り組むべきです。
考えてもみてください。障害者というものは、誰でもなりうる自然な常態であるわけです。
例えば学校の先生だって、今日の帰り道で事故に遭い、明日から車椅子生活になることは十分考えられます。
それでも次の日から普通に「おはよう!」と言いながら学校に来て、車椅子で教壇に立つというのが当たり前に実現できる社会でなければ、おかしいと思いませんか。
子どもたちがそういう社会を見ながら大人になっていくことで、「障害者になってしまったら、人生どん底だ…」とかいう、わけのわからない価値観を持たなくて済むし、困難に立ち向かっていく勇気だって育むことができます。
もちろん予算との兼ね合いもあるとは思うのですが、あきらかに優先順位の高い取り組みでしょう。

ここで問題になってくるのが、『合理的配慮は特別扱いではないのか?』という声があることです。
これに関して、少し具体的に考えてみましょう。
例えば、目の悪い人は黒板の文字が見えませんが、眼鏡をかけることで、みんなと同じように学習することができます。
すばらしい合理的配慮ではないですか。
それと同じく、板書を書き写すのが困難な人がタブレットPCを使用したり、聴力の弱い人が補聴器を使用することで、みんなと同じように学習することができます。
すばらしい合理的配慮ではないですか。
足を骨折した人が松葉杖を使用したり、足に障害のある人が車椅子を使用することで、みんなと同じように校内を移動することができます。
すばらしい合理的配慮ではないですか。
教室内の情報量が多すぎて授業に集中できない人が、授業中はカーテンで掲示物を隠すことで集中できるようになります。
すばらしい合理的配慮ではないですか。
無理の無い範囲で個別の配慮を実施すれば、誰もが同じスタートラインに立てるようになります。
これって、特別扱いしているわけでは無いですよね。

国連の『障害者権利条約』(もちろん日本も批准)にもあるように、障害の定義というのは、医学モデルから社会モデルへと変わりました。
以前は、障害は病気と同じように、その個人の中にあるもので、それを訓練などで克服することにより社会参加を果たさなければならないという、医学的な考えに基づいたものでした。
ところが現在は、社会側の設備や制度が整っていないことによる、個人が感じる社会に対しての障壁、それこそが障害であるとされています。
つまり、障害者が社会に対して障壁を感じているのは、本人に責任があるわけではなく、社会的マジョリティだけが生活しやすいように作られた社会の方に問題があるというわけです。
これについても、身近な例で考えてみましょう。
例えば、左利きの人は右利きの人よりも微妙に生活しづらかったり、身長が2メートル以上ある人は、頭をぶつけて怪我をしたり、しゃがみこむ機会が多く腰痛になったりもするわけです。
社会的マジョリティ中心の世の中は、あらゆる社会的マイノリティが生活しづらい世の中ということになります。
そのような社会の仕組みによって苦労を強いられている人(生活に支障をきたすレベルで)がいるのであれば、自らの都合に沿って社会を作ってきたマジョリティ側には、その問題を解決しなければならない責任の一部があります。
つまり多様性を認め、誰もが能力を最大限に発揮することのできる社会を実現するためには、どうしても『合理的配慮』が必要になってくるというわけです。
現在、合理的配慮の実施に関する実例は、まだまだ少ないのかもしれませんが、障害者が持てる能力を最大限発揮して生きるためには、なくてはならない権利であることは間違いありません。

最後に、個人的に重要だと思っていることも書いておきます。
それは、『合理性』は無駄がなく費用対効果が高いというだけで、それだけが価値のあるものでは無いということです。
親にとって自分の子どもが特別な存在であることは当然だし、大好きな特定の友達のためだけに、特別に何かをしてあげたいと思う気持ちも自然なことです。
そういった自分の主観だけで行なう、非合理的な配慮もすばらしいものです。
ウザいといわれながらも過剰な手助けをしたり、ありえないほど子ども扱いしたり、呼んでもないのに「呼んだ?」って出てきたり…
そういう人間らしくて泥臭くて押し売りで恩着せがましい配慮は、いつの時代にも身近に存在しています。
たしかに非効率極まりないし、ありがた迷惑なだけかもしれませんが、そんな心のこもった非合理的な配慮によって救われる人も、実はたくさんいると思うのです。

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