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コラム

No.12 鳥栖市が目指すインクルーシブ教育

2019年6月22日(土)に開催された、『鳥栖市 障害のあるなしにかかわらず、全ての子どもが安心して共に学び、共に成長するための、保育及び教育の環境整備を推進する条例(素案)』の市民説明会に、ルンルン気分で参加してきました。
この条例の制定により、教育委員会や学校からの一方的な圧力によって分離教育を余儀なくされている児童生徒やその保護者が、その不条理と戦うためのツールを手にすることができる可能性もあることから、今後の鳥栖市の教育環境がおもしろいことになるかもしれないぞ! という予感がしています。
そこで、今回の説明会や質疑応答を通して個人的に感じたことなどを、今後のために勝手にまとめておきたいと思います。

市民説明会参加までの流れ

太郎が学校からもらってきたプリントの中に、今回の市民説明会のフライヤーが入っていたのがキッカケで、まずは条例制定に向けた動きがあることを知りました。
後日、親の会に出席した際にも同じフライヤーが紹介されたこともあり、ちょっと参加してみようかな? と思ったわけです。

フライヤーのタイトルにあった『鳥栖市 障害のあるなしにかかわらず、全ての子どもが安心して共に学び、共に成長するための、保育及び教育の環境整備を推進する条例(素案)』という条例名を初めて見たとき、数年前のライトノベルのタイトルかよとツッコミを入れたくなるほど長い名称に少々困惑したものの、障害児の教育環境改善に関する条例を制定するという動きが、この鳥栖市で巻き起こっていることに、正直驚かされました。
なぜなら、鳥栖市がインクルーシブ教育に力を入れていないことは、就学相談会でとっくに確認済みであると同時に、お世辞にも未来志向とは言えない『教科日本語』を実施するなど、過去分析型で画一性重視の方向へと突き進んでいる教育環境を目の当たりにしてきたからです。
いやだからこそ、このようなムーブメントが起こるのは自然な流れなのかもしれません。
この条例の制定をきっかけに、障害の有無によって、共に学び共に成長する機会を奪われている子ども達の現状を見直し、鳥栖市の学校教育全体を根本から変えていくための良い機会になればいいなと、個人的には期待しているのです。

市民説明会に参加しての感想

鳥栖市役所にて開催された市民説明会は、滞りなく進行しました。
素案の内容を簡単にまとめると、鳥栖市のすべての子どもが、保育や教育の場において共に学び共に成長できるようにすること、そのための環境調整(合理的配慮など)をきちんと実施すること、障害児の家族支援の構築を推進すること、それらを達成するために、すべての鳥栖市民が障害に対する理解を深められるようさまざまな取り組みを推進すること、などなどが掲げられています。
基本的には、国連の『障害者の権利に関する条約』を、そのまま市の条例として周知させていこうという方向性だと考えればわかりやすいと思います。
この素案の内容でも十分に満足できるものですが、細かい部分がさらに練られて、より具体的な施策に踏み込めるような内容になっていけばいいなぁと個人的には思いました。
ただ、今回の条例が推進しようとしている、全ての子どもが安心して共に学び、共に成長するための環境整備、つまり『インクルーシブ教育』について、多くの鳥栖市民が考えるためのキッカケになるだけでも、条例の意義はかなり大きいと思います。
いまだに地域の学校の通常学級は、選ばれし子どもだけが通うことのできる崇高な場所であると勘違いしている人が、健常児の親にも障害児の親にも多いことにビックリしますからね! ほんとにもう!!

説明会後の質疑応答で印象的だったのは、障害児の教育環境に対する問題提起が、市民(特に障害児の保護者)の声として非常に多かったということです。
学校や教育委員会の人権意識の低さについては、鳥栖市に限らず全国的な問題であり、障害児の教育環境は常に切実な問題と隣り合わせだということが伝わってきました。
そのような意見に触発されて、ついつい僕も独断と偏見に満ちた個人的な質疑をしてしまったのですが、思ったことを口に出さずにはいられないのが The Asperger の性分なので、特にこれといった問題は無いでしょう。
僕が発表した質疑のおおまかな内容は、この条例によって学校の教育環境そのものを変えることができるのかということと、文科省が推進している分離教育システムに対抗することができるのかということの2点です。
これについてのより具体的な内容は後述したいと思います。

分離教育が当たり前の現状について

特殊教育が開始されて以降(それ以前は障害児への教育そのものが無かった)、日本の障害児教育のありかたに変化は無く、「分離教育」をずっと変わらず守り続けています。
欧米の教育先進国が、インクルーシブ教育によって持続可能な社会構築に力を注ぐなど、教育に関する考え方の成熟度は常にアップグレードされているにもかかわらず、日本の教育環境には何の変化も無く、何が何でも分離教育を変えたくないという強い意志が随所に見受けられます。
にもかかわらず、なぜか教育概念の世界的トレンドに、日本は常に対応し続けていることになっているというこの不思議。
まるで壮大なるマジックショーを見せられている気分です。

障害者権利条約批准にあたってのインクルーシブ教育の推進に関する文科省の取り組みとしては、1次意見と2次意見の段階において、本当の意味でのインクルーシブ教育推進の方向性が示されていた(「交流及び共同学習」では「インクルーシブ教育」は実現できない:文部科学省)にもかかわらず、論点整理の段階で、なにやらきな臭ささが漂いはじめ(特別支援教育の在り方に関する特別委員会 論点整理:文部科学省)、最終的には『インクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進』という謎のパワーワードが登場するに至ります(共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告):文部科学省)。

特別支援教育がインクルーシブ教育であるという、笑ってしまうぐらいむちゃくちゃな言い訳を考え出したことは、『特別支援教育の在り方に関する特別委員会』の一世一代の大仕事だったわけですね。
「inclusive education system」を「包容する教育制度」と翻訳するのであれば、「general education system」を、「教育制度一般」と煙に巻くような翻訳をするのではなく、堂々と「一般的な教育制度」と翻訳するべきです。
この不可解な翻訳は、「特別な物事に限らないで、広く全体に通じる状態であるさま」であるはずの「一般的」な教育環境から、完全に排除されている子ども達がいることを指摘されることが想定済みであるかのような、実に手際のよい対応です。
この手の分離教育主義的な思想を隠しつつも推進している例は他にもたくさんあります。
例えば、就学先の決定には、本人・保護者の意見を最大限尊重することとなっていますが、どう考えてもそれは当然でしょう。
そこに取って付けたように、最終的には教育委員会が決定すると付け加えられているあたりは、大変わかりやすく本音と建前を使い分けつつ分離教育を肯定しているわけで、これまた実に手際のよい対応です。
また、合理的配慮の不提供に関する理由においても、過度の負担となるボーダーラインをいくらでも低い位置に設定できるシステムにより、学習障害のある子どもにタブレットPCを活用させたいという合理的すぎる要望ですら、「他の子ども達に示しがつかないから」とか「過去に例がないから」といった論点のずれた主張によって疲労困憊させられ、自ら分離教育を選択せざるを得ない状況に追い込まれるという黄金パターンが確立されているわけで、これまた実に手際のよい対応です。

ちなみに、合理的配慮の提供にあたっては「体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」でなければならないと定義されているのですが、これって肯定形と否定形が入り混じっていて日本語としておかしいだろ! というツッコミも一応しておきましょう。
この場合、「体制面、財政面において、均衡を失しない又は過度の負担を課さないもの」としなければならいはずです。
合理的配慮の提供にあたって「体制面、財政面において、均衡を失したもの」でなければならないのであれば、エレベーターは設置し放題だし、学校にスパコンも導入できるし、もう何でもアリですよね。
子ども達の読解力が低下していると嘆いているわりには、文科省も教育委員会も学校関係者も、読解力は大丈夫でしょうか?
まずは、大人達がきちんと国語を勉強しておきましょうね!

いずれにしても、このような条件付きの分離教育や単なる統合教育を早急に改めないと、今後さらに大変なことになっていくのは目に見えています。

インクルーシブ教育を推進する意義

一昔前、「ノーマライゼーション」という考え方が出てきた時、大きな衝撃があったに違いありません。
なぜなら、障害者が健常者と同じように、普通のことが普通にできるような社会を目指そうなどという考えは、それまで存在しなかったからです。
各々の障害特性に対して適切な支援をすることで、障害者が健常者と同じように生活できるという発想そのものが、過去の人間の認知を遥かに超えるものでした。
欧米諸国がそのような概念を掲げて実行してくれたおかげで、社会の価値観は確実に変化してきました。
すると今度は「インクルージョン」という考え方が出てきて、やはり大きな衝撃がありました。
なぜなら、全ての人間は連続性の中にあり、そもそも障害とか健常というラベリングそのものが存在しない包括的な社会を目指そうなどという考えは、過去の人間の認知を遥かに超えるものだったからです。

そうやって、社会は常に豊かな価値観へと向かっていきます。
あと数年もすれば、今の人間の認知を遥かに超える新たな価値観が誕生することでしょう。
今までの歴史がそうであるように、今は誰も想像すらできない新しい価値観の登場により、障害者の人生は今よりずっと豊かなものになるはずです。
その際、欧米諸国は新たな価値観へシームレスに対応できるかもしれませんが、「ノーマライゼーション」にすら対応できていない日本が、異なる解釈によって対応済みだと主張する手法は、さすがにもう通用しないでしょう。
調査捕鯨問題と同様に、もういい加減言い訳できないというタイミングが来た時点で、『日本は、健常者と障害者を分離する社会を目指します!』と開き直っている未来しか想像できません。
豊かな共生社会を目指すためにも、または未来で恥をかかないためにも、今まさに本当の意味でのインクルーシブ教育への対応が必要です。

インクルーシブ教育はただの理想論では無い

いい加減聞き飽きたフレーズなのですが、「インクルーシブ教育など実現できるはずが無い…」とか、「全ての子どもが地域の通常学級に行くのは理想的だけれども…」などという、消極的な意見をさまざまな場面で耳にします。
今回の説明会でも、何度も耳にしました。
でもね、本当にただの『理想論』でしかないのでしょうか?

国連は、実行できそうもない理想論を採択などしません。
2006年に、『障害者権利条約』が採択されたということは、その時点で、各国のちょっとした努力によって確実にインクルーシブ教育は実現できると判断されたからでしょう。
もっと言えば、1994年の『サラマンカ宣言』ではすでにインクルーシブ教育を目指すことが示されていました。
となると、さらにその数年前から、そのような概念はとっくに存在していたはずです。
そこから長い年月をかけて議論を重ねることで、インクルーシブ教育は実現不可能な単なる理想論では無いと、関係者の意見は一致しているはずです。
実際に欧米諸国では、包括的な社会の実現にかなり近いところで(見た目上は)試行錯誤している状況まで来ています。
ところが日本を見てみると、いまだに「インクルーシブ教育は理想的かもしれないけど実現は不可能だ」という思考停止状態に陥った意見を、一切躊躇することなく、堂々と、自慢げに、教育委員会や校長が抜かしやがるわけです。
やったことも無いくせに!

世界の価値観を知ること

ちなみに、これは個人レベルでの話をしているわけではありません。
持続可能な社会構築のために、地球規模で目指すべきものは何かという話です。
例えば、太郎は特別支援学校へ通っていますが、僕は今の環境に大いに満足しています。
文科省が発表している、最新の特別支援教育資料によると、児童生徒一人当たりへ投入される年間の公的教育費は、通常学級の子どもが約94万円に対して、特別支援学校の子どもは約726万円であり、この部分だけを見ても、さまざまな面で特別に優遇されているであろうことが容易に想像できます。
もうね、ラッキー! としか言いようがありません。
特別支援学校サンキュー! と堀内孝雄のように天を仰ぎたくなります。

でも、本当にそれで良いのでしょうか?

それは単に、僕の個人的な都合とか感想であって、実はそんなものは大して重要ではないのかもしれません。
特別支援に対して世界が NO! を突き付けたのであれば、今の自分の常識をまずは疑ってみるべきです。
だったら今すぐ太郎を通常学級へ転学させるべきではないのか? と言われることになりそうですが、いやいや、それもできません。
なぜなら、今の通常学級は、特に苦手なことも無ければ特に優れた能力も持っていない、いわゆる『定型発達の子ども』にしか門戸を開かない場所になっているからです。
そんな場所は、障害児だけに限らず、すべての子どもにとって過ごしにくい場所になっているはずです。

地域の通常学級が、すべての子どもにとって楽しい学びの場になるためには、一体どうすれば良いのでしょうか?
答えのひとつは、すでに僕の中では出ているんですけどね。

この条例を活用しよう!

言葉では、「共に学び」とか「共に生きる」とか言いつつも、障害児は生まれた瞬間から偏見の目にさらされ、幼稚園や保育園からも入園拒否され、義務教育期間中は通常学級から排除され、大人になっても作業所や特例子会社などという社会の中の特別支援学級に追いやられています。
就労という人生の最終目標を達成した後は、決してそこを辞めず、単純な軽作業を永遠に繰り返すことこそが、優秀な障害者である(ンなわけねーだろ!)とされています。
つまり、生まれてから死ぬまで、健常者とは完全に分離された環境で生涯を過ごす(街や職場で健常者と障害者がすれ違うことを共に生きると表現するなら別ですが)ことになるわけです。
もちろんそのような人生を求めている障害者もいますが、そのような人生を苦痛で不自由に感じている障害者もたくさんいるということは無視できないことです。
ところが、障害特性さえも自己責任論で片付け、生産性の無い障害者なんだから、普通の人間らしい生活ができなくても仕方がないとか、さらには人間としての価値が無いまたは低いという考えを多くの人達が普通に持っています。
生産性だけで人間を判断するのがいかにバカバカしいかは、少し考えればわかることです。
例えば、ほとんどの公務員は富を生み出しているわけではないという視点で見れば生産性が無いわけで、そこに人間としての価値が無いと言えるのでしょうか。
生産性はもちろん大切ですが、人間の価値と関係があるようにはどうしても思えません。
ただ、僕たちの世代は、生産性が大事! 生産性がすべて! といった教育を受けてきたので、そのような古い価値観から抜け出すことは不可能なのかもしれませんが、今の子ども達は違います。
『障害者権利条約』を批准している日本以外の国がそうであるように、全ての子どもが共に学び、共に成長することができれば、未来は確実に変わるはずです。

この条例によって、今の子ども達の未来が豊かなものになる可能性が少しでも高くなるのであれば、大歓迎です。

僕が発表した質疑の内容について

最後に、ちょっとお恥ずかしいのですが…
質疑応答の時間に僕が発表した内容を、頂いた音声データを元に書き起こしてみました。
僕の前に、障害児の保護者の方の発表があり、教育現場の問題点を指摘されていたので、その内容を受けての発表となっています。

(冒頭に簡単な自己紹介あり)
えーっと、お聞きしたいことは2点あります。
1点目は先ほど保護者の立場として後ろの方が言われていたようなことに関してですが、そのようなことはどうしてもあると思います。
今の学校教育自体が子ども達に画一性を求めていて、画一的な一斉授業しかやっていないというか…
超手抜きな授業しかやっていない状況だからです。
学校の先生が忙しいのはよく理解しているつもりですが、だからといって授業は手抜きでいいという理論は成り立たないので、そこは学校の働き方改革と一緒に進めていただく必要がありますが、とにかく今やっている一斉授業というやり方はどう考えても無理があります。
例えばオランダでやっている『イエナプラン』のように、子ども達一人ひとりが、障害のあるなしにかかわらず、全てユニークな存在なんだという前提さえ持っていれば、学ぶ内容は決まっていても、それぞれの子どもの得意な方法で学ぶことができます。
電車が好きな子どもは、駅名や時刻表や路線図を使って、国語や算数や社会を全て学べるはずです。
他の子どもは他の得意な方法を用いて、ひとつの教室の中で学ぶということを、実際にやっているわけですよね。
日本でも『イエナプラン』を取り入れた学校ができたという話も聞いていますし、決して不可能なものではないはずです。
そういった教育をしていけば、そもそも予算もかからないし、支援員の数もそんなにいらないし、合理的配慮もほとんど必要無くなってきます。
つまり、今後は授業とか学校の内部をユニバーサルデザイン化していくということが必要になってくると思うのですが、この条例によってそういうところまで踏み込んでいけるのかどうか、ということについてお聞きかせください。
市民の皆さんで教育委員会にプレッシャーをかけ続けながらでも、鳥栖市はこういうふうにやっていくんだということを推し進めたり、学校を内部から変えていけるのかどうかという部分は、僕がこの条例に期待していると同時に非常に興味深く思っているところです。

それともう1点のお聞きしたいことですが…
大前提として、『障害者権利条約』を日本ももちろん批准しているわけですが、世界各国の状況と比較すると明らかに違う点があると思っています。
それは、例えばイタリアのように、支援学級も支援学校も完全に撤廃した国もあるわけです。
他の欧米諸国のように、支援学校は特例中の特例として置いておくものの、基本的にすべての子どもは自分の家から一番近い学校の通常学級に通うというのが大前提となっている国もあります。
ひとつの学校の中に支援学級なんてものは存在しないし、子ども達に学校都合によるラベリングをして、学ぶ場所を分けるなんてことはやっていないわけです。
それこそが『障害者権利条約』が求めているインクルーシブ教育です。
日本は… というか文科省は、その解釈を変えることで… 連続性のある学びの場があるんだから、これこそがインクルーシブ教育だという解釈をすることで、我々はインクルーシブ教育を達成していると国連に主張し続けている状況です。
もちろん国連からは、それはインクルーシブ教育ではないということで、何度も勧告を受けているにもかかわらず、その考えを一切変えるつもりはない、という状況が今も続いています。
そこでお聞きしたいことというのは、今回のこの条例が、日本が解釈しているような、障害児を通常学級から排除していくことこそがインクルーシブ教育で、それこそが未来の共生社会を作るはずだという考え方を踏襲するものなのか…
それとも本来の『障害者権利条約』が求めている、すべての子どもは地域の通常学級で共に学ぶべきだという…
もちろんそのためには、先ほど話したような授業の改革だとか教室運営のありかたそのものを変えなければいけないと思うのですが、そういうものを推し進められるツールとして、日本の解釈に対抗できるような条例なのか…
どちらの立場にある条例なのかということを、ぜひ最後にお聞きかせいただければと思いますので、よろしくお願いいたします。

以上が、僕が発表した質疑の内容となります。
いやぁ、緊張しました。

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