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コラム

No.13 子ども達は何のために学校に行くのか

子ども達は何のために学校に行くのでしょうか?

この問いに、『義務教育だから』とか『勉強は大事だから』といった、薄っぺらな回答をしている人はいませんか?
その薄っぺらな回答って、自ら深く思考して導き出したものですか?

僕の主観ではありますが、そんな回答をする人の学生時代の特徴としては、教師や友達からの評価を気にするあまり、言われたことだけはキッチリやるものの主体性を発揮できず、周囲から浮かないよう細心の注意を払いながら行動する一方で、無個性なヤツとは思われたくない意地だけはあるため、普通レベルの趣味や学校的価値観の中で称賛されそうな学習成果(例えば英語が得意など)のことを個性だと思い込むことで自尊心を保ちつつも、そもそも独自の信念など持ち合わせていないため、トイレに行くときや教室移動のときも必死で仲良しごっこに明け暮れ、スクールカースト最下層に対して意識的または無意識にマウントをとることで自己評価を上げていることに違和感すら覚えず、他人の才能を羨みつつも妬んでいるタイプの人が多いように思います。
そう、ひとことでいえば定型発達者のことですね。

このような定型発達者の特徴ともいえる、薄っぺらな定型思考をもう少し深く掘り下げてみたとしても、概ね『良い大学に行き、給料の高い会社に入り、定年後もお金に困ること無く安心して生活するための唯一の方法は、学校に休まず通い、ペーパーテストで良い成績を収めることなのであーる』といったところでしょうか。
このような薄っぺらな思考では、物事の本質に迫ることができないばかりか、無用な同調圧力によってイノベーションの起こりにくい社会構造を作ってしまい、人類にとっては大きな不利益となります。
そこで、まずは余計な定型思考を解き放ち、現在の学校教育の問題点と学校の存在意義がどうなっているのかについてクリティカル・シンキングしてみましょう。
それにより、今後どのような学校教育が必要になるのかをハッキリさせることで、『子ども達は何のために学校に行くのか』という問いに対する僕なりの答えを見つけてみたいと思います。

現在の学校教育の問題点

現在の社会構造には、急激な変化が巻き起こっています。
その大きな要因は、人工知能(AI)がディープラーニングを手に入れたことにより、人間の能力の価値基準や働き方に大きな影響を及ぼしているということです。
例えば、数年前までは就職すれば一生安泰と言われていた銀行員が、容赦なく大量リストラされました。
この事実によって示される教訓は、創造性の伴わない知的労働の分野において、人間は AI には勝てないということです。
何が言いたいのかというと、現在の学校教育システムに適応すればするほど、未来は無くなるということです。
もう少し正確に言えば、学校の勉強 "だけ" していれば将来が保証されていたという、定型発達者の定型発達者による定型発達者のためのボーナスステージは、ほんの3世代ほどで終わりを告げたということです。
暗記力が抜群のアスペルガーと、非創造的作業にしか努力を見出せない定型発達者だけに有利な社会構造というものは、そもそも未来志向では無かったのです。

いつの時代にも、テクノロジーのスピードについていけない人達は存在します。
リストラされた銀行員のほとんどは、実は自分には何も能力が無かった(テストの成績以外で)ことに気づいたのではないでしょうか。
今まで将来のためにと思ってがんばってきたものは一体何だったのか、それは社会をサバイバルしながら、自ら人生を切り開いていくための本当の能力だったのか? と自問自答することになったかもしれません。
現在の学校教育では、いまだにそのような状況に陥るかもしれない人間を大量に育成しているのです。
学校の勉強をがんばって良い大学に入れば、高給で年功序列で終身雇用で老後の心配も無いような会社で働けるなどという、すでに崩壊したシステムを信じてがんばった子ども達が、社会に出た瞬間に挫折する姿を見たいと思う教師はいないはずです。
それでも偏差値や学テや PISA や大学合格率を重視するあまり、ひとつのルールの中だけで相対評価するという画一的な教育を強制し続ける教師がいるとすれば、それは子どもの未来のための教育ではなく、自分の給料のための教育と言われても仕方がないでしょう。

偏差値や免許や資格や肩書に自分の価値を見出そうとしてがんばっている人(おそらく多くの定型発達者)は、その価値がいつ消滅するかわからない時代を生きることになるのだと肝に銘じておく必要があります。
いつの時代においても、『人間にしかできないこと』こそ価値があり、その中でも『自分にしかできないこと』にプレミアが付くのですから。

学校の存在意義について

すでに急激に変化する社会が到来して、さらにテクノロジーが指数関数的に成長し続けている状況でもなお、学校に行く理由を『義務教育だから』とか『勉強は大事だから』と言いますか?
そもそも義務教育が求めている義務とは、子どもに対してあらゆる教育の機会を担保するための保護者に対する義務であり、単なる手段の提示にすぎない言葉です。
勉強が大事なのはモチのロンですが、その目的は生きる力をゲットするためであり、特性による向き不向きを無視してまでも、全ての人間が古文漢文や三角関数をマスターする必要は無いわけです。
学習指導要領の内容こそが全知全能だというのなら話は別ですが。

繰り返すようですが、誰もがそこそこ何でもできることが素晴らしい、という時代はすでに終わっているのです。

だとすると、現在の学校の存在意義は、友達と遊べることと給食がおいしいことの2点のみで、教育的価値は無いのでしょうか。
確かに20世紀と比べると、現在の学校の教育的価値は薄れているように思います。
ただ、子ども達にはそれぞれの個性や特性があるので、例えば自己決定できないタイプの子どもにとっては、現在の学校教育は学びやすい(将来のためになるかどうかは別として)はずであり、全ての子どもにとっての学校教育がダメダメだというわけではありません。
逆に言えば、自己決定したいタイプの子どもにとっては、息苦しくストレスの溜まる場所になっているように思います。

本来ならば、全ての子どもがそれぞれの得意な方法で主体的に学べる環境を用意することで、あらゆるライフキャリアを肯定し、全ての子どもが社会の中の適材適所で能力を発揮できるようにすることが、学校としての当然の役割だと僕は思っています。
それができなければ、いつまでたっても学校の存在意義は薄いままでしょう。

適材適所で能力を発揮するということ

現代社会を『ファンタジー RPG』に例えるなら、パラメータが均一で普通と安定をこよなく愛する定型発達者は、間違いなく『村人』です。
それに対して、剣士や魔法使いや神官のような勇者達は、パラメータの一点の能力だけを極めた不器用な人達であり、いわゆる非定型発達者です。

村人は冒険に出たり魔物と戦う必要は無く、その平均的能力とコミュニケーション力を駆使して、村の社会基盤を維持管理することが最大の役割となります。
そして時々、勇者達のパーティをサポートしてくれればいいわけです。
それさえできれば、安心安全で普通で平凡な、刺激は少ないけれどそれが一番いいんだよ… という自虐かと思いきや実は本気という定型思考を存分に発揮しながら、日々を幸せに暮らすことができます。
では何が問題点なのかというと、魔物によって村が破壊されている危機的状況であるにもかかわらず、剣士や魔法使いや神官を冷遇して、その能力を発揮できない状態に追い込んでいるという、同質性を重んじる価値観の存在そのものです。
ちょっと視点を変えれば、村の危機的状況を脱することができるというのに、その能力を持っている人達を切り捨て、ヤバイよヤバイよ! 誰かなんとかしてよ! と慌てているのが、村人というマジョリティなのです。
村人達には村人達の、勇者達には勇者達の役割というものがあるはずです。
どちらが上とか下とかではなく、適材適所ということです。

村人が力を合わせれば、何でも乗り越えられると思ってしまうのは大きな間違い(もちろんできるものもありますが)であり、数の力や努力で何とかしようという、一昔前のマンパワー主義的な解決方法ではすぐに限界が来ます。
現代的にいうと、定型発達者が100万人集まって知恵を出し合ったとしても、スティーブ・ジョブズにはなれないし iPhone が誕生することはありえないのです。
そうは言っても、社員数の多い大企業から斬新なアイディアが生まれることだってあるだろ! といった反論もあるかもしれません。
でもそれは、多くの人が集まって議論を重ねたり、マンパワーで押し切ったからではなく、たったひとりの変人による認知を超えた発想に巡り合う可能性が高いからです。

個人の能力には限界があるのだから、誰もが同じようにパラメータを高めるというのは、社会全体としてはそれほど意味がありません。
どうすれば社会全体として高いポテンシャルを発揮できるのかを合理的に考えましょう。
そうすれば、おのずと各々の得意なことをまずは極めて、必要な時にチームとして活動するというスタイルこそが、未来社会でのスマートな働き方のように思えてきます。
チームの中では、気が合うとか気が合わないとかはどうでもよくて、お互いの能力を信じてまかせるということが重要です。
同質性を重んじることによって、自分達にとって都合の悪いものを排除するという行為が正当化されているとすれば、それがいかに生産性を低下させているかという事実に早く気付いてもらいたいものです。
ファンタジーRPG の世界でも、エルフとドワーフは相当仲が悪いものの、パーティには欠かせない頼もしい存在なはずです。

過去の教育から学ぶべきもの

子ども達の未来を輝かしいものにするための方法はあるのでしょうか。
もちろんありますとも。
それは早急に教育を変えることです。

どのように教育を変えればよいのかは、ぜひ近所のテクノロジストに聞いてみてください。
え? 近所にテクノロジストは住んでいない?
それならば、SNS などで直接質問してみることをオススメします。
過去と現在のテクノロジーしか認知できていない人にとっては、未来へ向けた教育を語ることは不可能です。
どうなるかわからない未来の姿が、どうなるかわからないなりにどうなるか想像できているのがテクノロジストなのです。
未来へ向けた教育のヒントを手に入れようとすれば、テクノロジストに聞いてみるのが一番手っ取り早いということです。

20年前に、Google という会社が誕生して、あの驚くべき検索システムに多くの人が魅了された瞬間は、今でも鮮明に記憶しています。
もう Yahooo! カテゴリいらねーわー! と思った人もたくさんいたでしょう。
あの時点で、多くの IT 関係者やインターネットのヘビーユーザーの中には、暗記型の学校教育に何の意味があるのだろうか… と、疑問を持った人は多かったのではないでしょうか。
そして教育学や教育学部や教育委員会や文科省は、テクノロジーの波に乗り遅れていることに気付くこともなく、日本の教育は超一流だと自画自賛しながら、この20年間を無駄に過ごしてきたことになります。
おかげさまで、日本はすっかり世界の速度感に付いていけなくなってしまいました。
もちろんこれは教育現場だけの問題ではなく、社会側にもテクノロジーの成長を遅らせる大きな要因はありました。
その要因とは、テクノロジーを使いこなす有能な若者が会社のトップに君臨することを、既得権益を手放したくない脂っこいオジサン連中が許すはずがないということです。

上の世代が新しいものを受け入れる覚悟がなければ、社会は変わりません。
社会が変わらないため、教育が変わりたくても変わることができなかったという状況が続いていたとも言えます。
せっかくゆとり教育というチャンスがあったにもかかわらず、それすら握りつぶされてしまいました。
ただ、ゆとり教育によって多様性を肯定され、思考力と創造力を伸び伸びと発揮できるタイプの人を、一定数は社会に送り出すことができたことは、未来社会での希望の光かもしれません。

おもしろいことに、文科省はゆとり教育との決別を自信満々に宣言したわりには、来年度からスタートする教育改革の基本理念は、ゆとり教育そのものではないでしょうか。
これは教育に対するイメージギャップをうまく利用した、壮大なるギャグとしか思えません。
でも、ゆとり教育の再来というのであれば、個人的には大歓迎です。
ゆとり教育を否定している人達の顔ぶれを見ると、揃いも揃って個人の能力が低く、肩書などにしがみついているようなタイプの堅物というか、いわゆる偏差値教育で勝ち残ってきた人達が多いことに驚きます。
そのような人達は、ゆとり教育の中から、過去の認知の枠を超えた能力を発揮することで、社会の中で伸び伸びと活躍している若者がたくさんいることをご存じ無いのでしょうか。
あと、そのような人達とグルになってゆとり教育を叩き続けてきたメディアとそのスポンサーである教育関係企業なども、いい加減に日本の未来のことをまじめに考えてもらえるとありがたいのですが。

さすがにこのままでは日本という国家そのものがマズイぞ… となったところで、やっと重い腰を上げざるを得ない状況が来ていることは事実であり、今回の教育改革がコケてしまったら、本当に日本の未来は無いかもしれません。
来年度からスタートする、すでに不祥事続きで不安だらけの教育改革ですが、実際にスタートを切ったらうまく機能してくれるであろうことを、期待だけはしておきましょう…

個人的に心配でならないのは、プログラミング教育です。
いまだにその全容が不透明であることから、現在の進捗状況を地域の学校に聞いてみたところ、「先生達が各々で勉強をがんばっているところです。」との回答でした。
各々って… それ勤務時間外に自主的にやってます的な雰囲気ですよね…
しかも、もう数か月後に迫っている公教育の話なんですけど…
期待したいのはやまやまですが、不安しかない今の状況… このままで大丈夫なのかな?

今後どのような教育が必要なのか

なにはさておき、教師に魅力ある労働環境とファシリテーターとしての能力を与え、子ども達に豊かな教育を実施してもらわなければなりません。
イエナプランなどを目の当たりにしても、「こんなものは授業ではない!」などと言い、自らの労働感を満たすだけの、教師がよくしゃべる授業こそが良い授業だというゴミみたいな価値観がいまだに蔓延していることは、教育改革にとって大きな障壁です。
想定した結果にどれだけ近付くかを重視する教育では無く、子ども達が自ら考えて自分なりの答えを導き出す、その過程に時間をかけて、伸び伸びと思考力と創造力を育んでもらえればいいだけなんですけどね。

就学前であれば、幼児教育に力を注ぐことで、さらに教育効果は高まります。
勘違いしてはいけないのが、『幼児教育』と聞けば、小さい頃から公○式に通わせ、国語や算数を教え込むことだと思い込んでいる人が日本には多いことです。
しかしながら、それは本来の幼児教育ではなく、逆に子ども達から好奇心を奪いかねない余計なお世話な教育です。
幼児教育とは、モンテッソーリ教育やシュタイナー教育にあるような、非認知的スキルを高めることです。
それは幼児期に行なうほど効果が高いし、もっと言えば幼児期にしか伸ばせないものと言っても過言ではありません。
学力は必要に応じて後から習得できるものなので、どの段階でどのような教育を実施するかは、タイミングが重要になってきます。
そういうものをいっさいがっさい無視して、学校側の都合に子ども達を合わせたり、保護者の都合で子どもの自由なフィールドにレールを敷くのであれば、はっきり言って何もしないほうがまだマシです。
極端な例かもしれませんが、子どもが熱中しているのであれば、自然の多い公園で一日中適当に遊ばせておくだけで、勝手に自らの能力に磨きをかけているのです。

特別支援教育の方向性について

群より個を重視する成熟した社会の到来によって、日本という国家の存続そのものが危うくなっている現状を打破するためには、何が何でもイノベーションが必要であり、イノベーターに向いている人達に未来を賭けるということが重要になります。
イノベーターに向いている人達とは、どういった人達のことでしょうか。
過去の歴史を振り返ればわかる通り、イノベーションを起こせる人の条件としては、自閉や多動の特性を持っている非定型なタイプ、いわゆる発達障害と診断されるタイプの人達であることはよく知られています。
つまり、現状でいうところの特別支援の対象となっている子ども達のことだろうと思うのです。
もちろんそのような子ども達を、将来イノベーションを起こすであろう『優れた人類』とか『ニュータイプ』とか言うつもりは全くありません。
これこそ単なる適材適所であり、レッドオーシャンに居場所を求める定型発達者と、ブルーオーシャンに居場所を求める非定型発達者という特性の違いでしかなく、役割分担に過ぎません。
そう考えると、安定した社会基盤を支える役割を果たすことになる定型発達の子ども達にとっては、実は現在の学校教育でも特に問題は無いのかもしれません。
ところが、イノベーションを起すことで社会を発展させていく役割を果たすことになる非定型の子ども達にとっては、現在の学校教育はイマイチというか、最悪になっている可能性もあります。
なぜなら、現状の特別支援教育の中では、非定型の子ども達が単なる能力の低い子として扱われていることが多いからです。
しかも教師も保護者も児童生徒も、みんながそのような認識を当たり前のように持っているから救いようがないのです。
つまり現在の特別支援教育はうまく機能していないと言えます。

本来なら、すべての子どもに対して特別支援の考え方が必要であり、すべての子どもに対して個別の教育支援計画を作成するのが当然です。
もちろんすべての子どもが同じ教室で学ぶというのが大前提ですが。
ところが、一斉授業しかできないことを理由に、子どもの特性に応じて学ぶ場所を『分ける』という教育を何が何でも維持するつもりらしいので、そういう前提で考えてみることにしましょう。
そうすると、定型発達の子ども達には現状と同じ『普通教育』で問題ないのですが、非定型の子ども達には『専門教育』こそが必要ということになります。
それは本人の好きなことや得意なことを究極まで追求させて、能力の峰を作るための教育です。
そして究極の能力の峰を持った人達が、目的に応じて適当にチームを組めば、何かしらのイノベーションが起こる可能性が高くなります。
それこそが人類の未来を切り開いていくための希望です。

教育改革の目的が、日本の未来を豊かなものにすることであれば、最も力が注がれるべき対象は、非定型の子ども達に対してであり、そうならなければ最大の教育効果を発揮することはできないだろうというのが、僕の個人的な考えなのです。

子ども達は何のために学校に行くのか

子ども達は何のために学校に行くのでしょうか?
いろいろと考察してみたものの、一般的な答えは見つかりそうにありません。

結局のところ、この問いに対する僕なりの答えは、『定型なら何も考えずに学校行っとけ!』です。

非定型の子どもに対してであれば、現状ではそれぞれに最適な答えを見つけてもらうしかないということになります。
もちろん僕には僕なりの明確な答えがあるのですが、ここに書くには長文になりすぎるため、また別の機会に。

ちなみに、文中の表現によっては、僕が定型発達者を小バカにしているように思われる部分があるかもしれませんが、それは一点突破型の能力に関する部分だけであり、総合的な能力を低く見ているわけではありません。
むしろ僕のような変人は、定型発達の人達に支えられて生きているようなものなので、定型発達者が持っている『定型』というつまんねぇ特性には、感謝してもしきれないのです。
そう考えると、僕は環境に恵まれているというか、良き理解者に囲まれているからこそ生きていられるのだなぁと実感します。
定型のみなさん、いつも本当にありがとうございます。

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