太郎システム

コラム

No.16 自閉と才能

『自閉』という特性は、歓迎すべき才能でしょうか、それとも単なる障害でしょうか。

普通をこよなく愛する人達が、普通という名の同調圧力を絶賛推進中のところ非常に恐縮なのですが、僕にとっての『自閉』という偏った特性は、とてもとても魅力的なものです。
そこで、僕が考える『自閉』の魅力を、僕の周囲の人達の事例をもとに、四面楚歌を恐れずに語ってみようと思います。

AR三兄弟の川田十夢さん

僕は、日本のトップクリエイターのひとりである、AR三兄弟の川田十夢さんと一緒にお仕事をさせてもらっています。
どんなことをやっているかというと、例えば某飲料メーカーのあんなクリエイティブや

某ファッションメーカーのこんなクリエイティブなど

AR をはじめとした最新のテクノロジーや、8ビット感溢れるピコピコするものなど、クリエイター冥利に尽きるような魅力的なお仕事にかかわらせてもらっているのです。
ありがたやー。
そんな川田さんの活動を、関係者として近くで見つめたり、観客として遠くから眺めたりする中で、実は、タイトルにあるような『自閉と才能』について考える機会がよくあります。

川田さんという人物像をひとことで表現するのはとても難しいのですが、普通の人とは全く異なる思考から生み出される未来的何かを、現代の価値に置き換えてアーティスティックに表現されている、いわゆるブルーオーシャンで活躍しているタイプのクリエイターです。
もし川田さんが普通の人であれば、ノイタミナのロゴを作ったり、文化庁メディア芸術祭の審査員をやったり、ラジオでイノベーターをゲストに呼びまくったり、先輩としてようこそされたり、情熱大陸に上陸できたりするはずがないでしょう。
では、なぜ川田さんは普通ではないことができるのでしょうか、というより、普通ではないことしかできないのでしょうか。

実は、川田さんは小学校に就学する際、米国精神医学会による現在の国際的な診断基準(DSM-5)でいうところの、『自閉症スペクトラム障害(ASD)』という診断を受けています。
今ではいろいろな研究によって自閉の解明が進み、明確な診断基準が確立されていますが、70~80年代当時としては、就学前に診断がつくのは珍しかったのではないかと思います。
いずれにしても、川田さんが普通の人とは異なる思考をしながら、クリエイティブな活動にモチベーションを発揮し続けられるのは、この自閉的な特性が大きくかかわっていることは間違いないでしょう。

ちなみに、その医師からは「普通の小学校には行けないでしょう」と忠告されたそうですが、川田さんのお母様は普通の小学校に普通に行かせたそうです。
このように、単なる一般論や教科書的な分析しかできない医師からの忠告を、だが断る案件にしたことは素晴らしい判断であり、このエピソードは川田さんの人生の中でも大きな分かれ道のひとつだったと思います。
もし就学段階で一般的な環境から隔離されていたら、川田さんは今のような能力を発揮できていなかったかもしれません(もちろん可能性の話なのでどうなっていたかわかりませんが)。
地域の学校という多様性の中で、良くも悪くも周囲と自分との違いを知るという経験は、自らのアイデンティティを確立させる上で不可欠であり、自己肯定感を高める上でも重要なことです。
ただ、そのためには『違い』を良いものとして捉える環境で過ごすことが大前提であり、多様な価値観を受け入れようとしない環境(みんなが同じであることに安心感を抱く人達で構成された集団)の中では、逆に自己肯定感が低くなることもあるので注意が必要です。

川田さんの場合は、自閉という特性が生み出す独特の世界観を、うまく社会の価値にリンクさせることができている事例だと言えます。
このような話をすると、ニュートンやエジソンやアインシュタインやゲイツやジョブズの話と同様、それはひと握りの人にしか当てはまらない特殊な事例であり、一般的な自閉症者とは無関係な話だ、といった普通の反論をする普通の人が、必ずと言っていいほど普通に出てきます。
もちろん有名になるかどうかという点で見れば特殊な事例と言えるのかもしれませんが、自閉の特性を持った人達の生き方としては、案外ありふれた事例だと僕は思っています。
なぜなら、僕の周囲には、自閉的な特性があるからこそ、自らの能力で人生を切り開きながら、自分なりの幸せを追求しつつ豊かな人生を送っている人がたくさんいるからです。

身近なところで、僕の兄を例に挙げてみましょう。
兄はとてつもなく自閉的な特性を持っています。
幼少期の様子を親から聞くたびに、環境との齟齬も含めて、典型的な自閉らしさを示すエピソードに溢れています。
本人の特性としては、論理的な思考力に優れ、数学がメチャメチャ得意なタイプです。
小学生の頃には『カセットビジョン』にハマり、『MZ-1500』という音楽用のカセットテープを記録媒体とする謎のパソコンで遊んだり、もちろん『ファミコン』にも夢中になっていました。
中学から高校にかけては、『MSX』というほぼゲーム専用のパソコンでプログラミングをすることに熱中するなど、今考えれば、現代社会に必要とされる最先端の能力を幼少期から育んでいたことになります。
社会人になってからは、日立の中央研究所やジャストシステムを渡り歩いて、今は海外でフリーランスのシステムエンジニアをしながら、スマホアプリの開発なども行なっています。
兄の人生のどの部分を切り取ってみても、自閉的な特性によって獲得した能力が根底にあるからこそ、自ら人生を切り開いていくことができています。

普通の人達の場合、ペーパーテストで良い成績を収めることが人間としての能力の高さだと勘違いしていることで、さまざまな弊害があります。
例えば、『子どもの時期』という、レベルアップし放題のボーナスステージにおいて、期間限定で発揮できる莫大なエネルギーのリソースを『ペーパーテスト対策』という単純作業へ注ぎ込まなければならず、個別の才能を伸ばすことができなくなります。
その結果、誰かから与えられる普通の職業の選択肢の中から、どれか1つをチョイスするしかなく、いかにも現代的なキャリア教育の枠の中で、既存のレールを進むしかない状態に陥ります。
そのようなゼネラリストとしての人生が悪いというわけではないのですが、努力して勝ち取ったはずのその既存のポジションは、いつでも交換可能な汎用的パーツであり、その中で AI に怯えながら仕事をしていくことにやりがいを感じることができるのか、という疑問が残ります。
ただ、それこそが普通の生き方であり、そこに違和感はまったく無い、またはそれ以外の生き方を知らない、いやむしろそのような人生が最高! と思っているのであれば、特に問題は無いのかもしれません。

自閉的な特性を持っている人の場合は、自分の好きなことに熱中していたらとてつもない実力が付いていて、いつのまにかそれが仕事になっているというパターンが圧倒的に多いです。
兄はまさにその典型で、僕はそれを近くで見ていたからこそ、自閉の魅力と強みを実感することができるのだと思います。

父もまた、典型的な自閉といえます。
脳の回路が完全に理数系の人間であり、科学や天文学や地質学に人生を捧げているようなタイプです。
家には、『天文年鑑』などの専門書や百科事典やよくわからない技術書がズラリと並んでいました。
また、巨大な反射望遠鏡やロータリーエンジンや飛行機とかヘリコプターとかボートのラジコンやさまざまな計測器が山のように積んでありました。
特に車が好きで、仲間とレースに出場したり、自分で整備工場を長年経営するほどでした。
クラシックカーの整備の世界では、それなにり『変人』として有名だったようです。
自家用車も、ホンダS800やトヨタS800や初代サニーやロータススーパーセブンやシトロエン2CVやビートルやミニクーパーなど、基本的に役に立たない車しか所有していないです。
唯一役に立つ車といえばジムニーで、それは道具として使い倒す必要性があったからでしょう。
父はアウトドアも好きで、子どもの頃はよくジムニーでキャンプに(無理やり)連れて行かされました。
もちろんキャンプの中身にもこだわりがあって、子どもでも本格的なサバイバルをしなければならず、薪集めや火おこしはもちろん、その日に採った貝や釣った魚を焼いたり、アケビなどの木の実を食べたりしていました。
仕事を引退してからは、ヨットで海上生活を楽しんだり、縄文土器を焼いたり、黒曜石で矢じりを作ったりして、周囲から見ると何が楽しいのかまったく理解できないようなことに没頭していました。
相変わらず車好きは続いていて、クラシックカーのレストアにも力を入れていました。
例えば『日野コンテッサ』とかいう、これまた役に立たない車を復活させていました。

周囲からは理解されにくいものの、本人にとってはそれが幸せというか、それをせずにはいられないのだろうと思います。

父の生き方を見ていると、確かに食べる時間も風呂に入る時間も、そして寝る時間さえももったいないと思えるほど熱中できるものがあることは幸せだろうと思います。
もちろん、そのようなモチベーションの高い生き方を、すべての人に強制しようというつもりはありません。
僕は地域の社会福祉協議会と関係があったので、多くの高齢者と触れ合うことができたのですが、その時に興味深く観察できたことは、時間的な自由が与えられた人間の行動パターンについてです。
ほとんどの高齢者は、特にやることがなくても、苦痛を感じること無くのんびりと過ごすことができていたし、それこそが人生をかけて追及してきた本当の幸せだと思っているようにも見えました。
例えば、テレビを見ることが趣味だったり、旅行をすることが趣味だったりと、情報も体験も誰かに与えられることで、初めてそこに幸せを見出すことができるタイプの人が多かったという印象です。
それはそれで、ひとつの素敵な幸せのかたちなのだろうと思います。
ただ、自閉的な傾向が強い人は、自らの内面から溢れ出てくるものに幸せを見出す傾向があり、与えられるものに幸せを見出すという一般的な生き方は受け入れ難いのではないかと思うのです。
また、実は時間を持て余している高齢者は、何かに熱中して周囲が見えなくなっているゴーイングマイウェイな高齢者のことを、少しうらやましいと思っているのではないかと感じることもあります。
だとすれば、高齢になればなるほど、自分の世界観に没頭するための強力な武器である『自閉』という特性が超絶役に立ってくるとも言えます。

母もまた自閉的な傾向が強いです。
女性の場合は、一見するとコミュニケーション力があるように見えるので、自閉的な傾向があることに気付かれにくいといいますが、まさにその通りだと思います。
兄や父のように、何かを創作するといった『物』へのこだわりとは少し異なり、『事』に対するこだわりが非常に強いという印象です。
また、特に友人との距離感などで、生きづらさを感じることが多かったように思います。
ただ、母は信念が一切ぶれることが無く、思い込みの力によって幸運を呼び寄せるという謎の強さがあります。
母がこうと決めたことは、なぜか後々実現するのです。
これは単なる偶然というわけではなく、常にそのチャンスが来るのをじっと待っているのだと思います。
誰もが諦めたり忘れ去ってしまっても、おそらくひとりでじっと待ち続けていて、わずかに見えたチャンスの糸を見逃さずダイナミックにたぐり寄せることで、そこに必然を作り上げているのではないかと思うのです。
それを周囲から見た時、偶然にも願いが叶ったとか、幸運が舞い降りたように見えるのではないでしょうか。
母を観察していると、一度決めたら絶対に信念を曲げないという自閉的なこだわりは、間違いなく強みになると気付かされます。

自分・友人・先輩

僕の場合もまた、診断こそ無いものの、自閉の特性を強く持っていることを自覚しています。
ただ、太郎が誕生するまで、自閉という概念があることすら知らずに生きてきました。
学校の先生から、おまえは変人だとか天才だとか言われてきたその理由も、そして日常の中で感じてきた独特の劣等感や優越感も、すべてこの自閉という特性によるものだと知った時、まるで世界が一変するような感動すらありました。
僕と同じカテゴリーの人達が世の中にはたくさんいて、同じような目を持って、同じような感じ方をして、同じようにくだらないことに熱中しているのだと思うだけで、無性にうれしくなりました。
自閉的な傾向を持つ人達をひとりひとり訪問して、「あなたのこだわりは何ですか?」と聞いて回りたいぐらいです。

友人や先輩にも、自閉や多動の特性を持つタイプの人はいます。
料理の腕と声の大きさはピカイチだけど、それ以外のことはコントのように失敗ばかりする料理人とか、納期に間に合ったことが1度も無いけど、すばらしい手描き看板を仕上げる職人とか、社会不適合者を自認しつつも、造形やボディペイントをせずにはいられない女性とか、みなさん揃いもそろって得意なこと以外は何もできないタイプの人達です。
ただ、それこそが自分のアイデンティティだと捉え、自信を持って生きています。
そして何より自分にも他人にもやさしくおおらかで、なぜか妙にカリスマ性のある人達が多いというのも不思議な共通点です。
もちろんその特性ゆえに、周囲の人達に迷惑をかけることもあるかもしれませんが、いや絶対にあるのですが、確立されたキャラクター性によって、意外と許してもらえるタイプの人が多い気がします。
自閉の傾向があると自覚している人が、自らの人生を生きやすくするためには、周囲から許してもらいやすい空気感をあらかじめ作っておくことは重要かもしれません。

自閉という才能

自閉は、現在ではわかりやすい先天的な特性です。
自閉という特性を持っている人達は、生まれたときから、というより生まれる前からその状態にあるわけで、その部分に関してはどうにかできるものでもなければ、どうにかする必要もないものです。
幼少期から顕著に表れることの多い『こだわり』は、決して悪いものではありません。
人と違うことは良いことであり、普通になること、つまり定型発達者の特性に近づくよう、投薬も含めてさまざまな方法でコントロールしようと必死こいて無駄な努力をする意味は無いでしょう。
その逆もまた然りです。
普通の人達が、後天的に自閉的な能力を手に入れようと思っても、それは到底無理な話なのです。
高次脳機能障害などで、いきなり美術や音楽や数学の才能に目覚めるなど、自閉的な特性と似たような状態になる例は報告されていますが、必ずしもそうなるわけではありません。
自閉の魅力とは、独特のこだわりを長い年月をかけて洗練させていくからこそ、誰も見たことのない世界を誕生させることができるのです。
自閉的な特性を持って生まれたのであれば、ぜひそれを大切にしてもらいたいと思います。
もちろん定型という特性を否定しているわけではありません。
自閉が才能なのであれば、定型もまた才能です。
ただ、数が多い場合、それが才能とは認知されないというのもまた社会の厳しい現実です。
あぁ、なんてかわいそうな普通の人達(注1)よ。

自閉的な特性がいい感じに発揮されれば、普通の人達で構成される社会の中においては、ほとんどチート級の能力となります。
ただし、そのためには自己肯定感(注2)が重要です。
しっかりと自己肯定できるようになるためには、独特のこだわりに取り組む時間が十分確保されていなければなりません。
つまり、能力が発揮できるかできないかの分かれ道は、こだわりを肯定してくれる親や友達や教師がいるかどうか(環境要因)によって左右される部分が大きいです。
こだわりに取り組む時間が確保されず、『普通になること』という無理難題を押し付けられた場合は、みんなができることができないだけの困った人に認定され、自己肯定感が低くなるリスクがあるので注意しましょう。

 

(注1)普通の人達とは、生まれながらに普通というわけではなく、教育によって普通になってしまった人達という意味です。そもそも人間は多様性をもって生まれているにもかかわらず、唯一の価値基準に沿って教育され続けた場合、結果として普通の人になってしまいます。

(注2)自己肯定感とは、「自分は他の人より優れているんだ!」といった優越感や、「自分は何でもできるんだ!」といった全能感や、「自分は誰からも好かれているんだ!」といった痛恨の勘違いとは異なり、自分の得意なことも苦手なことも全て受け入れたうえで、そんな自分を無条件に肯定できることこそが自己肯定感です。

自閉という障害

歓迎すべき才能としての自閉がある一方で、こだわりに取り組む時間が確保されず、自己肯定感が低くなってしまった場合、『障害』となってしまうケースがあります。
僕の知り合いの中にも、そういうタイプの人がいます。
どちらかといえば、自閉という特性を憎むべき足かせとしてとらえている話題のほうが、身の回りには溢れています。

自閉の特性が顕著な場合、一般的なコミュニティに受け入れてもらいにくいのは確かです。
いわゆる、生産性よりも協調性を大事にしていて、年功序列で、いまだに中間管理職が力を持っていて、メールよりも電話での連絡を重視するような会社では、かなり居心地が悪くなってしまうのは間違いありません。
ただ、その苦悩は本人の努力不足によって生じるものではなく、同質性を重んじる社会との関係性の中で生じるものです。
とは言っても、その場からダッシュで逃げるという方法以外で、その苦悩を根本から解決するのは、今の社会情勢の中では難しいでしょう。
そうなってしまうと、自閉という特性を憎む気持ちが大きくなってしまうのも仕方がありません。
でも、それはとても残念なことです。

自閉は地球を救う

生物の進化というものは、一定の割合で突然変異を繰り返しながら、既存の特性を持った個体が淘汰されることで、環境の変化に常に適応していきます。
人間もまた、世代を重ねながら常に進化を続けている状態なのです。
ということは、世代間で常識の基準が乖離している場合に、例えば「最近の若いモンは…」とか「ただの老害でしょ…」みたいな感じのバトルが勃発するわけですが、それは確実に若い世代の常識のほうが正しいということになります。
70代の人達よりも50代の人達が、50代の人達よりも30代の人達が、30代の人達よりも10代の人達が、現代の環境に最適化された進化した世代であり、より豊かな価値観を持った人達ということです。

では、障害の有無で見た場合はどうでしょうか。
統計によると、発達障害と診断される人が年々増え続けているそうです。
精神医学は、誤診を無くす便利なアイテムである『スペクトラム概念』を喜んで導入することで、すべての人間は多様であり連続性の中の一部にすぎないと主張するわけですが、だったらいつまで発達障害という診断を量産し続けるのかという壮大なる疑問に直面するわけで、それについてはまた別の機会に考えてみたいと思います。
仮に発達障害者という普通とは異なるジャンルの人が世の中に増え続けているというのであれば、それは定型発達という特性そのものが淘汰されているということになります。
定型発達という特性は、数の力を最大限発揮することによって社会基盤を支えるという役割に特化しています。
ところが、その役割の多くがテクノロジーによって解決できることで、みんなで仲良く忙しそうに取り組んでいた作業的労働が、人類にとって必要なくなっているのかもしれません。

例えば農業のように、少ない労働人口でも人類を維持するだけの食物を生産できるようになったのは、間違いなくテクノロジーのおかげであり、そこに大きなイノベーションが起こったからです。
そして他のさまざまなジャンルでも、早急なイノベーションが求められています。
過去の歴史を振り返ればわかる通り、イノベーションを起こすには自閉や多動の特性を持っていることが重要(優性思想的な意味ではなく単なる役割分担として)であり、今まさに、集団での仲良し作業に特化した遺伝子よりも、個の力によってイノベーションを起こしそうな遺伝子を人類が欲しているというのであれば、自閉傾向のある子ども達をもっとありのままに成長させるべきでしょう。
早急に持続可能な地球環境を作るためにも、イノベーションを起こせる可能性のある人達に、ある程度未来を賭ける必要があるわけで、そのためには一人一人が持つ『違い』を良いものとして捉えられるよう、教育も社会もガラリと変わらければなりません。

例えば教育であれば、集団だけで発揮される力よりも、個が持っている特異で得意な能力を伸ばせるよう、教師がファシリテーターに徹する授業づくりが必要になってきます。
あくまで主体は子ども側であり、子ども達による教師の働かせ方改革などを推進すれば、意外と理想的な学校作りができそうな予感がします。
大きな教育改革をすぐには実現できないとしても、まずは黒板を空手チョップで割って、一斉授業とかいう教師の自己満教育をやめるところからでも今すぐ始めてみませんか?

 

さて、『自閉』という特性は、歓迎すべき才能でしょうか、それとも単なる障害でしょうか。
考えれば考えるほど、当事者(診断された本人)とは無縁の話のように思えてきます。
当事者の周囲にいる人達の考え方ひとつで、未来はどうにでもなるということなのです。

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