太郎システム

コラム

No.17 IQ の推移で見えてくる学校教育

太郎は、小学1年生から3年生までの3年間で、IQ(知能指数)が28ポイントも上昇しています。
このインパクトはなかなかのもので、IQ の上昇には応用行動分析学こそ最適だと思い込んでいる ABA 信者を一瞬で黙らせることができそうです。
ではなぜ、就学をきっかけに IQ が急上昇したのでしょうか。
今回は、その理由について考えてみます。

IQ が急上昇した理由

結論から言うと、IQ が急上昇した理由は、学校教育に問題があるからです。

IQ の数値は、同年齢の平均値を100として、そこから相対的に算出されます。
つまり、太郎の知能が就学後に急激に伸びたのか、それとも、世の中の子ども達の知能が就学後に突然停滞しているのか…
数値の上昇率だけでは判別できません。
太郎個人に焦点を当てた場合、思考力を鍛えるための独自の教育をやり続けていることもあり、これが効果を上げていることは理由の1つでしょう。
だからといってここまで急激に数値が伸びることは、常識的には考えられません。
つまりもう1つ別の理由があるはずで、それは IQ の平均値を作り上げている日本中の子ども達が、就学をきっかけに思考力が停滞するような教育を受けているということです。
というわけで、この2つの理由について、もう少し詳しく見ていきましょう。

ちなみに、今回の分析によって、太郎の IQ が28ポイント上昇してスゲー! ということを自慢したいわけではありません。
学校がいまだに暗記重視の教育や、ドリルを速く正確に解くことだけに力を注いでいるようなので、さすがにそれは時代遅れでダサいよねー! ブッブッー! ということを再確認しておきたいだけなのです。

IQ とは

まずは IQ(Intelligence Quotient)とは何なのか、ということについて改めて確認しておきましょう。
厚生労働省の情報サイトに掲載されている解説によると

知能の水準あるいは発達の程度を測定した検査の結果を表す数値。知能のおおまかな判断基準とされると同時に、知的障害(知的能力障害)などの診断や支援に利用される。
単に学習で覚えた知識や学力ではなく、様々な状況や環境に合理的に対処していくための土台となる能力を知能と捉え、それをわかりやすく数値化したものを知能指数と言います。知能検査と呼ばれる測定方法を使って検査します。

と書いてあります。

知能の定義については納得できる部分も多いのですが、IQ が高い人の中には、様々な状況や環境に合理的に対処していくための土台となる能力が低い人もいるため、知能指数の説明に関しては足りない部分もあるような気もしますが、とりあえず言いたいことはわかります。
その人が持っている多彩な能力や非認知スキルや人間性などとは関係無しに、単に頭が良いか悪いかをざっくりと判断するための材料といったところでしょうか。
つまり、『IQ とは、人間の知能を正確に計測できる素晴らしいものであり、この数値の高さこそ能力の高さであり、メンサの人達スゲー!』ということではなさそうです。
日本においては、福祉サービスなど制度上の基準として使用されることを除いては、IQ の数値自体にほとんど意味は無いと言えます。
アメリカでの知能の捉え方は、もっと興味深いもので、ガードナーの MI 理論が有名です。
人間には『言語的知能』『倫理数学的知能』『音楽的知能』『身体運動的知能』『空間的知能』『対人的知能』『内省的知能』『博物的知能』の8つの独立した知能があるとされていて、対話力とペーパーテストだけで測定しようとする日本の知能の捉え方とは大きく異なります。
このように、脳が行なう処理こそが『知能』であると捉える考え方は、個人的に納得できるものです。

僕にとって、赤川次郎と並ぶ愛読書である『アメリカの才能教育 ― 多様な学習ニーズに応える特別支援 / 松村暢隆 著』に、このあたりのことは詳しく書かれてあるので、興味のあるかたはぜひ。

知能検査で測定しているものとは

少し話が脱線しますが、知能検査について、もう少し考えてみましょう。
結局のところ、知能検査とは何を測定しているのでしょうか。
わかりやすいように、『知能』を『身体能力』に置き換えて考えてみます。
身体能力を測定する被験者は、『短距離ランナー』『体操選手』『F1ドライバー』『プロゴルファー』『水泳選手』の5人です。
IQ 検査とは、さまざまな知的能力を単一の検査によって数値化しようとする試みなので、ここでは『100メートル走』を IQ 検査だと仮定します。
100メートル走のタイムが速いほど IQ が高く、遅いほど IQ が低いということです。

さて、実際に検査(タイムを計測)してみた結果はどうなるでしょうか。
間違いなく『短距離ランナー』が最も IQ が高いということになるはずです。
『短距離ランナー』が、100メートル走という競技に向いているから当然と言えば当然ですが、それを理由に運動能力が最も高いと診断するのは無理があると思いませんか?
身体能力が高まれば足が速くなるのは確かだし、100メートル走が速い人は身体能力が高いことも間違いないのですが、それはごくごく限られた能力でしかありません。
『体操選手』も『F1ドライバー』も『プロゴルファー』も『水泳選手』も、各々のジャンルでは驚くべき能力を発揮しているわけです。
運動能力を正確に数値化しようとするなら、スポーツテスト(体力・運動能力調査)のように、『身体能力』を多岐にわたって測定しなければならないはずです。
今回の検査方法では特定領域だけを測定していることが問題なのは一目瞭然であり、本当に人間の身体能力の全てを正確に計測できているとは言えません。
早い話が、知能検査で測定しているものとは、その程度のものだということです。

知能検査で高得点を叩き出そうと思えば、その領域の訓練だけをすればいいわけで、そういった無駄な努力をせっせとやり続けるのは、IQ の数値以外に自慢できるものが何も無いという人だけで十分です。

太郎の IQ について

太郎の場合は、1年に1回のペースで、年度末に IQ の検査を行なっています。
検査したタイミングは、保育園の年長さんの時に、就学判定で診断書が必要になるというウワサがあったため、山本リンダには申し訳ないのですが、ウワサを信じて検査を受けました。
その後は1年生の2月ごろと、2年生の2月ごろ、そして3年生の2月ごろに検査を受けています。
ちょうど、就学してから1年ごとの知能指数の変化がわかるようなタイミングになっています。
これは、知能指数の推移が気になって仕方がないとか、上昇したらうれしいからといった理由で検査を受けているわけではありません。
福祉制度の都合上、どうしうても検査結果が必要になるというだけであり、知能指数の数値自体はどうでもいいと思っています。

具体的な数値は記載しませんが、太郎の知能指数の推移としては、小学1年生の期間で15ポイント、2年生の期間で6ポイント、3年生の期間で7ポイント上昇しています。
IQ が上昇する事例はあるにはあるのですが、基本的には小学校低学年までであり、年齢が上がるほど上昇率は少なくなると言われています。
なので、さすがに3年生では2ポイントぐらいの上昇かな、と思っていたのですが、コロナ休校による環境の変化があったり、自分の好きなことに没頭できる時間が増えたことで、結果的に2年生時を上回る上昇率となっています。
結果として、就学後の3年間で知能指数が28ポイント上昇していることになります。

一般的な考え方では、3年間で急速に知能が高まったということになるでしょう。
ただ、はじめにも書いたように、僕はそうは思いません。
IQ の数値は相対値なので、太郎が伸びているのか、太郎以外が停滞しているのか、またはその両方が関係しているのか、検査結果だけでは判断できないからです。

IQ を上昇させるためにやったこと

IQ を上昇させるためにやったことは、何ひとつありません。
僕は、全般的に思考力を伸ばす教育をやっているので、IQ として測定可能な特定領域も"ついでに"伸びたということでしょう。
僕がどういう教育をやっているかというと、ことあるごとに「太郎は何をしたい?」と問いかけたり(もちろんその要望をできる限り実現させることが前提であり、実際にほとんどの要望を叶えてきました)、太郎が質問をしてきた場合は、答えの存在する簡単なものであったとしても、「太郎ならどう考える?」とか「自由にやってみて」と答えて、自ら思考するよう仕向けています。
それを効果的に行なうためにも、遊園地や美術館や公園に頻繁に出かけたり、おもしろい大人に会わせたりして、何が起こるかわからない楽しさや、偶然の中から生まれるアクシデントを体験させて、その都度問題を解決していくということを、ひたすら繰り返しています。
そのような体験型の教育を日常の中に取り入れるわけですが、残念ながら普通に実施するだけでは時間的に足りません。
子ども達の1日は結構忙しいので、放課後の2~3時間を使って実施しようと思っても、なかなか効果的な体験を提供することはできないのです。
そのため、わざわざ時間を捻出して実施する必要があります。
太郎の場合は、学校には週に3日通い、残りの2日は、体験型の教育に時間を使うというやり方を、1年生の頃から続けてきました。
かなりの時間を投入していると思われるかもしれませんが、学校教育とのバランスとしてはちょうどよかったのではないかという印象です。

ただ、教育者でも何でもないような(あっ児童指導員の資格はありますが)、その辺にいるアニメ好きで機械オタクで腰痛持ちの少し変わったおじさんが思い付きで行なっている独自の教育に、思考力を高める効果があるのかどうか疑問を持つ人もいるでしょう。
このあたりのモヤモヤに関しては、少し検証する必要がありそうです。
莫大な資金も時間も投入して、これだけ頑張って教育したのだから、それなりの効果があるに違いない…
というバイアスがかからないよう、客観的な事実だけで検証してみます。

例えば周囲の子ども達が、同じく3年間で IQ が28ポイントほど上昇しているということであれば、僕がやっている教育に意味は無かったと判断できます。
一般的には、3歳で IQ が50だった場合、10歳でも50だし、20歳でも50というように、年齢が上がっても IQ の数値にはほとんど変化は無いと言われています。
僕が知っている情報(ブログや Youtube などで検査結果を公表している人や周囲の人達)では、多少の上下はあるものの、やはり IQ の数値にほとんど変化が無いという人しかいません。
そもそも全国の年齢別の平均値を 100 としていることからも、数値が上がれば伸びているし、下がれば停滞していると考えることができます。
だとすれば、太郎だけが極端な上昇率を示しているということであり、僕が実施する謎の教育によって、何かしらの効果があったと考えるほうが自然でしょう。

ちなみに、ダウン症などで発達の速度がゆっくりな場合は、年齢が上がるにつれて IQ の数値が低くなっていくことがあります。
これも、IQ が相対値であることによって起こるマイナスイメージです。
実際には世の中の平均的な伸び率と比較した場合に差が広がっているだけであり、確実に知能は高まっているのでお間違えの無いように。

IQ を停滞させる学校教育

IQ の数値が相対的なものではなく、絶対的な基準で数値化されるものであれば、太郎の IQ が3年間で28ポイントも上昇することはあり得ないでしょう。
つまり、就学前までは、順調に思考力が高まり続けているにもかかわらず、就学すると同時に思考力が停滞してしまうというのが世の中の大多数の子ども達の状況です。
これは通常学級でも支援学級でも支援学校でも同じことが言えます。
僕の場合は、就学前も就学後も、太郎にずっと同じ教育をし続けているのでよくわかるのですが、太郎の思考力はずっと安定した速度で伸び続けています。
決して就学後に急激な上昇をしたわけではありません。
にもかかわらず数値が急激に伸びているということは、太郎以外の子ども達に変化があったとしか考えられません。

一応確認しておきますが、ひたすら漢字を覚えたり、ひたすら算数のドリルをやりまくっても、思考力が高まるわけではありません。
できないことができるようになったとか、ある特定の作業を失敗しないで行なえるようになったというのは、生活習慣が身に付くのと同じことであり、パターン化することによってその作業に慣れ、効率よく処理することができるようになったというだけです。

普通の大人でも、友達の披露宴で『てんとう虫のサンバ』を踊ることになった際、最初はうまく踊れなくても、披露宴当日にはそれなりにうまくなっているはずです。
つまり、繰り返し練習することでパターン化することに成功して、みんなで息の合ったダンスが踊れるようになったというだけで、知能が高まったわけではありません。

漢字を書くにしても、算数のドリルを解くにしても、てんとう虫のサンバを踊るにしても、車を運転するにしても、料理をするにしても、思考するのは慣れるまでであって、パターン化することさえできれば、あとはメチャメチャ思考しながら作業しているわけでは無いのです。
場合によっては、ボーっとしながらでもできる作業になります。
日常生活を送る上では、常に深く思考を巡らせて行動するのは効率が悪いため、反射的に素早く行動できるようなスキルをたくさんゲットしておくことは合理的であり、それによって人生を生きやすくすることは間違いありません。
ただ、その作業をしている時は深く思考しているわけではないということを念頭に置いておく必要があります。

つまり何が言いたいのかというと、『思考する』ことをやり続けるのは、効率よくパターン化された日常生活の中では、わりと難しいのです。
なぜなら、思考する場面に効率良く遭遇するには、わざわざ面倒くさいことに取り組まなければならず、いろんな意味で余裕がなければ実施できないからです。
それは、意識的に空白の時間を作って過ごしたり、好きなことに制限無く没頭したり、いろいろなところに出かけて偶発的に起こる問題に直面する経験を繰り返したりすることだからです。
一見すると、それらは無駄な時間を過ごしているように見えるかもしれませんが、むしろパターン化されていない環境にこそ思考力を高める要素があるわけで、それは最も効率良く思考力を鍛えられる方法かもしれません。
このように、物事に積極的に取り組み、予想外の体験的な学びを得ることを『アクティブラーニング』といいます。

アクティブラーニングといえば、「それって、対話的で深い学びのことでしょ?」と、どこかの教科書に書いてありそうなことを棒読みする人もいますが、正確にはそうではありません。
なぜなら、積極的な体験から得られる効果的なアクティブラーニングを実施するには、教室を飛び出して、自然や社会と深くかかわりながら自ら体験を得る必要があるからです。
そのような理想的な環境を、なんとか教室の中で再現することができないかと考えた結果、みんなで対話的な授業をするのが一番近いんじゃね? となっただけの話です。

結局のところ、すべての子どもがアクティブラーニングをやり続ければ、みんな揃って思考力が高まり続けるのです。
ところが、漢字をひたすら覚えたり算数のドリルを素早く解くことだけが評価される世界に入ると、わざわざ評価の対象にならないような、深い探究活動をやらなくなってしまいます。
これこそが、学校教育の大きな問題点です。

コペルニクスやガリレオ以前の学者は、地球が宇宙の中心だと本気で思っていたわけですが、今は小学生でも地動説の存在を知っているし、さらに太陽が宇宙の中心ですら無いことも知っています。
ところが、昔の哲学者の思考に触れると、今の大人でも新しい発見をすることができます。
検索すれば答えが出てくるような知識をたくさん蓄えることも必要なのは確かです。
ただ、それは目の前にある問題を、前例を踏襲して先送りすることで、素早く解決したような気分にさせる力でしかありません。
本当に大切なことは、目の前に問題が立ち塞がった際に、その都度ウェブ検索して情報を集め、自分の頭で深く思考した結果、自分なりの答えを導き出すことです。
そのような教育を、学校現場で実施することができたら、どんなに素晴らしいでしょう。

今の教育現場ですぐにでも取り組んでほしいことは、優柔不断だと思われている子の考えを、時間をかけてしっかりと聴くことです。
優柔不断な子というのは、決断する力が無いのではなくて、決定までのプロセスに時間のかかる子です。
深く思考して決めたいのに、すぐに決断を迫られるのでは、適当に答えるか黙り込むしかなくなります。
結果として、深く思考するタイプの子が評価されず、すぐに決断するタイプの子が評価されるという、わけのわからない状況が生まれています。
百歩譲って、それが社会に出てからの評価基準ならまだ納得できるのですが、教育現場でそれをやったら終わりでしょう。
時間をかけて深く考えるタイプの子が導き出す答えの中には、より授業を深く発展させてくれるための素材に溢れているかもしれません。
より授業を深く発展させられたら、45分の授業時間に収まらないので迷惑だ! と考えてしまう、深く思考しないタイプの教師がいることもわかっています。
そういう教師には、いくら対話をしてもムダなので、深く思考するタイプの教師の皆さん、いろいろとよろしくお願いします。

僕の教育は正解なのか

結果的に、僕の教育を自画自賛しているようなかたちになってしまい申し訳ありません。
ただ、すべてにおいて僕のやり方が正しいとは言い切れません。
太郎にはベストな方法でも、他の子どもにとっては、いや、他の親にとってはベストな方法ではない可能性もあります。
僕の教育方法では、思考力を伸ばすことに重点を置いています。
思考力が伸びるということは、付随的に IQ 領域も上昇してしまうため、IQ の数値によって線引きされている福祉制度に関しては、対象外となる可能性を高めることになります。
これは親の会などでもよく耳にするのですが、「福祉制度の枠に入らないグレーゾーンの人達は、どうやって生活していけばいいのか。手帳を取得できる知的障害の重い人がうらやましい!」という、トンデモ発想です。
障害者雇用率や特例子会社制度や障害者手帳制度など、来年も存在するかどうかわからないような、単なる制度上のカテゴリーに絶対的な価値を見出して、その枠に該当するよう個性を矯正したり、能力に制限をかけるなど、もってのほかです。
そのような考えを理解することはできるのですが、今後の子ども達の人生を苦しくしていくだけだと僕は思っています。
特別支援学校高等部の取り組みを見ればわかるように、職業教育という大義名分で矯正教育をした結果、在学中や就労先で二次障害を発症してしまい、その後の人生を暗闇の中でもがき続けることになったという話は、絶対にあってほしくないあるある事例です。
教育によって、“こうあらねばならない”と刷り込まれた結果、その理想の通りになれなかった自分と向き合うことは、障害のあるなしにかかわらず、苦しいものです。
その時になって、もっと本人のやりたいことを自由にやらせれば良かったと後悔しても遅いのです。
いや、遅くは無いですね。
早く気が付けば、そこから自らの人生を見つめ直し、周囲の価値観や同調圧力に左右されない幸せを見つけることはできるはずです。
ただ、それなりに大きく発想の転換をしなければならないため、まともな人であればあるほど難しく、周囲にそれをサポートしてくれる変人がいなければならないでしょう。

教育とは人生を豊かにしてくれるものであってほしいと願っているのですが、教育機関がそれを放棄しているとなると、『教育』という言葉の意味さえわからなくなってしまいます。

いずれにしても、僕は信念を込めた独自の教育によって太郎の未来が開かれると信じ、この教育を確実に誠実に堅実に忠実に切実に平日も休日も本日も元日も現実に如実に虚虚実実に実践していきます。

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