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コラム

No.07 インクルーシブ教育 vs 特別支援教育

現在、障害のある児童生徒を取り巻く教育環境は、それなりにカオスな状況にあります。
そのカオスな状況を作っている要因は、『インクルーシブ教育』と『特別支援教育』というダブルスタンダードを追い求めることで発生する、理想と現実とのギャップにあるのではないかと思います。
現状の教育制度の中に矛盾や誤解があるとすれば、子ども達の学びにとって悪影響です。
そこで、まずは『インクルーシブ教育』と『特別支援教育』について、それぞれの教育理念と現状を僕なりに整理し、今後の障害児教育のありかたについて考えてみたいと思います。

インクルーシブ教育とは

インクルーシブ教育とは『人間の多様性の尊重等の強化、障害者が精神的及び身体的な能力等を可能な最大限度まで発達させ、自由な社会に効果的に参加することを可能とするとの目的の下、障害のある者と障害のない者が共に学ぶ仕組みであり、障害のある者が「general education system」から排除されないこと、自己の生活する地域において初等中等教育の機会が与えられること、個人に必要な「合理的配慮」が提供される等が必要とされている。』と文科省のウェブサイトに掲載されています。

全ての子どもが地域の通常学級で学ぶことを手段のひとつとして、障害の定義を社会モデル(障害とは環境の不備により生じるもので、社会側に存在するものという考え方)に転換し、共生社会の実現を目指すためには必要不可欠な教育理念です。
インクルーシブ教育が実施される通常学級の中では、障害の有無など個別のラベリングや『特別扱い』は存在しないため、後述する『合理的配慮』という、主に環境調整だけで全ての子どもを受け入れ、全ての子どもの特性を肯定し、共に学べる仕組みを実現させることになります。

インクルーシブ教育の実例としては、ドキュメンタリー映画『みんなの学校』を観れば一目瞭然です。

特別支援教育とは

特別支援教育とは『障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである。』と文科省のウェブサイトに掲載されています。

障害の定義が医学モデル(障害とは個人が抱える問題であり、訓練などにより克服されるべきもの)であるという前提で、個人の能力を究極まで高めたり、障害特性を克服することで社会参加を促すことを目的としています。
障害を個人の問題としてとらえるなど、古い考えに基づく部分があるものの、環境整備によって社会側に存在する全ての障壁を取り除くことが不可能である以上、現実的な教育理念とも言えます。

特別支援教育を実施できる場所は、地域の学校の中にある特別支援学級と通級指導教室、そして特定の地域に設置されている特別支援学校であり、通常学級とは別の場所で個別の教育を受けるシステムになっています。

それぞれの理念のまとめ

上記のことをわかりやすくまとめると、ユニバーサルデザインの考えに基づき、障害へのラベリングそのものが存在せず、包括的な社会の実現を目指す『インクルーシブ教育』と、バリアフリーの考えに基づき、個々の障害特性に目を向けた支援の実施により、ノーマライゼーション的な社会の実現を目指す『特別支援教育』という対比になるかと思います(ますますわかりにくいような…)。

どちらが良いとは言い切れませんが、国連の『障害者権利条約』を批准する国々においては、インクルーシブ教育を目指しているというのが現状です。

日本の障害児教育の現状について

日本は、2014年に『障害者権利条約』を批准したことで、その内容(インクルーシブ教育を実現させることなど)を確実に実行しなければならない立場にあります。
国際条約(国際法)にどれぐらいの効力があるのかというと、日本の場合は憲法の少し下あたりで、国内法よりも上に位置しているらしく、頼もしい限りです。
さらに2016年には、『障害者差別解消法』も施行されたことで、『合理的配慮』が違和感なく提供される地域の通常学級で、すべての子どもが共に学ぶことこそ、現在の日本が目指すべき教育環境ということになっています。
障害児が地域の通常学級で学ぶということに嫌悪感を抱く人がいるとすれば、それは自身の価値観が既に時代遅れだということです。
ちなみに合理的配慮とは、『障害のある子どもが、他の子どもと平等に教育を受ける権利を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うこと』となっていて、障害特性によって差別を受けないために要求できる当然の権利であり、公的機関では完全義務化されています。
つまり、障害者から合理的配慮の要望があった際に、「前例がない」という、単なる思考停止状態であることを理由としたり、「特別扱いはできない」という、合理的配慮を特別支援と混同して論点をすりかえる手法などにより、合理的配慮の一方的な拒否ができなくなっています。
これまで無自覚の差別を行なってきた教師がいるとすれば、自分の中の正義が法に触れる可能性があるという衝撃の事実に直面し、さぞかしストレスを感じたことでしょう。
でも大丈夫。
自分の中の正義が周囲に通用しないというストレスは、発達障害のある子ども達が普段から感じているものであり、それを身をもって体験できたと思えばラッキーですよね。

さて、『障害者権利条約』を批准するにあたって、事前に国内法を整備してきたこともあり、インクルーシブ教育実現への期待が膨らんでいた時期が確かにあったはずなのですが、今となっては遠い昔の出来事のように思います。
なぜなら、現在の教育環境を見る限り、日本がインクルーシブ教育を推進しているようには到底思えないからです。
むしろ日本は世界の常識に逆行し、発達障害を含むさまざまな障害児を、できるだけ通常学級から排除しようという流れが主流になっています。
子どもの数が減り続ける中、特別支援学級と特別支援学校へ就学する児童数が、毎年のように増え続けていることからも、そう感じずにはいられません。

しかも、就学時健診という名のオーディション大会を実施し、定型外の児童を血眼になって探し出した挙句、就学相談会という名のディベート大会に参加させることで、就学先の最終決定権を教育委員会に譲渡させられるわけです。
その結果、就学先として通常学級を希望しても、それが叶わないケースもあり、果たしてこれをインクルーシブ教育と呼べるのか? と不思議な気持ちにさせられます。
インクルーシブ教育が実現または推進される社会においては、グレーゾーン(品の無い呼び方ですが…)を見極める目的が含まれるような就学時健診は必要無いし、そもそも就学相談会は存在しないはずなのに、こんなことをいつまで続けるつもりなのでしょうか…
特別支援教育という大義名分のもとに、合理的配慮どころか、合理的排除という分離教育制度が成り立ってしまうという、世界的に見ても一風変わった就学システムになっているのが日本の現状です。

そのような現状を、世界も黙って見ているわけではありません。
国連から再三にわたり、「日本はインクルーシブ教育を推進しろ! 何度言えばわかるんだコノヤロォー!」と圧力をかけ続けられているのです。
そこで外務省がピコーンッ! とひらめいたことは、『特別支援教育は、インクルーシブ教育に含まれるのである(日本ではね!)』というガラパゴス論法です。
さらに、その論法に文科省も乗っかり、『インクルーシブ教育システムの更なる推進のため、特別支援教育を発展させ~』などと言い出したものだから、もう収集がつかない状況です。
このような状況こそが、障害児本人や保護者や支援者らを悩ませたり、個性的な能力や特性に対する偏見や差別を助長する要因にもなっているように思います。

この矛盾した状況を打破するためには、次に挙げる2つの方法のうち、どちらかを実施するしかありません。
1つは、全ての子どもが通常学級の中で学べるよう、個別最適化の授業に転換(イエナプランなど)したり、教師の質を高めること(1本のストーリーラインしかない一斉授業をゴリ押しするため、支援員の数を増やすことでしか不測の事態に対処することができないというような低レベルな質の話ではありません)。
そしてもう1つは、障害者権利条約の批准を撤回することです。
このどちらかを実行すれば、矛盾は解消されるのですが、残念ながらその気配は全く感じられません。
共生社会を目指すにしても、日本には日本らしいやり方もあるだろうし、わざわざ障害者権利条約の縛りの中で世界の常識に合わせる必要も無いのでは? と個人的には思うのですが…

ちなみに、イタリアの例を見てみると、1970年代には既に、全ての特別支援学校と特別支援学級を撤廃し、完全なインクルーシブ教育システムを達成しています。
ノルウェーでも、特別支援学校を完全撤廃し、公立でも私立でも特別支援学校を建設してはならないという法律まで作るという徹底ぶりです。
まずはハード面を整備することで、強制的にソフト面を改善せざるを得ない状況を作ってしまおうという魂胆かもしれません。
ダイバーシティ実現に向けての取り組みは、日本よりはるかに進んでいると言えそうですね。

インクルーシブ教育の重要性

インクルーシブ教育は、モンテッソーリ教育などのような教育メソッドではありません。
未来の共生社会を目指すため、子どもの頃から多様性に触れながら生活し、みんな違って当たり前ということに『慣れる』ための環境整備です。
つまり、障害児 vs 健常児といった限定的なラベリングをするのではなく、高身長の児童も低身長の児童も、高収入家庭の児童も低収入家庭の児童も、運動神経抜群の児童も運動音痴な児童も、ポジティブ思考な児童もネガティブ思考な児童も、日本国籍の児童も外国籍の児童も、健康体の児童も医療的ケアが必要な児童も、みんな一緒に気楽にやっていこうぜ! みんなカモーン! というのがインクルーシブ教育です。
もちろんそのような環境の中では、非常に面倒な問題が次々と起こります。
その面倒な問題を避けるために、分離教育を実施したいと切実に願う教師側の立場もわからないでもないです。
しかし、いろいろな問題が勃発するように仕向けることも大事であり、それこそがインクルーシブ教育の本質だと僕は思っています。
自分たちが当事者となるような問題、しかも明確な答えの存在しない問題をみんなで解決していく過程でこそ、リーダーシップを発揮する児童や、サポート役が得意な児童、人と違う意見を持っている児童など、それぞれの伸ばすべき個性が見えてきます。
障害などのラベリングに目を向けるのではなく、それぞれの個性に目を向けて、将来必要となる能力へと繋げていくことこそが教師の役割であり、教育の本質であるはずです。
文科省や教育委員会が言うような、1日に1時間ぐらいの交流(支援級の子どもが、普通級にお邪魔する制度)によって、インクルーシブ教育を推進しているという論法は、手段が目的化していると言わざるを得ません。
多様性を認め合えるほど『慣れる』ためには、どれだけ長い時間を共に過ごすかがキーポイントであり、障害児と健常児が同じ場所にいたという既成事実を作るだけでは意味がないということを、学校関係者は理解しておく必要があります。

定型発達の児童や健常児にとっては、今の教育環境で何も問題無いのだから、障害児のための面倒な教育環境に巻き込まれるのは勘弁してほしいという意見もあるでしょう。
ところが、そう言っていられるのも今のうちで、今後数年間のうちにコペルニクス的転回が起こり、その形勢は大きく逆転するかもしれません。
マジョリティとしての定型発達者が作り上げてきた今の社会の仕組みは、特に優れた能力がなくても、筆記試験という暗記ゲームの攻略と、履歴書という画像加工とコピペと代筆によって生み出される創造物と、面接という演技力テストをクリアーすることによって、効率よく人材の仕分けができるようになっています。
そのような社会では、偏差値や資格や免許など、自分が何者であるかを証明してくれる肩書きにこそ大きな価値があり、自分のポジションを保障してくれる何かに必死にしがみ付いておくことだけが生き残る道だという、人類史上稀にみる不思議なステレオタイプに支配されてしまいます。
未来社会においては、そのような価値観は否定され、ある意味当たり前の社会になっているでしょう。
なぜなら、テクノロジーの発達、特に人工知能の発達によって、個別の人間が持っている本来の能力、特に創造力(想像力ではない)が重要視される社会に変化しているからです。
定型発達者が作り上げてきた、それほど突き抜けた能力を必要とせず、交換可能なポジション争いで成り立っている生産体型は、人工知能によって簡単に塗り替えられるタイプの社会構図でもあります。
車や電車など乗り物の運転や、経理などの事務作業、データに基づく情報解析や画像診断、言語関連の仕事などなど…
今までは知的労働だと思われていたはずが、実はそれほど知的能力を必要としない(答えが存在し、ある程度反射的に解決できる作業的労働)タイプの受動的な仕事は、今後数年間で、みるみるうちに無くなっていくでしょう。
そのような社会では、アスペルガー症候群の特性がある人達など、ある一点において個別の創造的能力が高い人が圧倒的に有利です。
これは未来の話というよりも、今現在、すでにそういう社会になっているわけですが、今後はさらにそれが加速していくということになります。
突き抜けた能力を持っている人を、いかに上手にサポートできるかという能力こそが、定型発達者が『定型』という能力を生かしながら、未来を生き抜くためのカギになる可能性もあります。
そのサポート役すらも、AI に持っていかれる可能性もありますが…
いずれにしても、未知なる20年後の社会の中で、ちょっと変わった能力者とうまくやっていくには、子どもの頃から彼らと自然なかたちで触れ合っておくことが重要だということです。
つまり、本当の意味でのインクルーシブ教育は、すべての子どもにとって有益なものであるはずです。

インクルーシブ教育は単なる理想論なのか

教師側の立場になれば、インクルーシブ教育の実現は、現実的に不可能であり(と言ってる時点で降参宣言しているようなものですが)、そのような理想を語るべきではないという考え方もあるかもしれません。
もちろんそれも一理あります。
ところが、学校現場を見渡してみると、あらゆることが理想で語られています。
例えば、『立派な大人になりましょう』とか、『笑顔で元気に挨拶しましょう』とか、『クラスの全員と仲良くしましょう』とか。
うーむ、全て僕に当てはまっていないのが、なんとも悲しいことですが…
ただ、完全無欠な人間なんていないのだから、苦手なことがたくさんあっても、誰にも負けない得技を持っている大きな子どもになればいいだけです。
挨拶はもちろん大事だけど、無理して笑顔を作るだとか、元気を装うなんて無理ゲーもいいところです。
クラスの全員と仲良くしましょうなんて… あっそれはいいことですね。
ただ、多くの人に超絶嫌われても、多くの人に超絶好かれる人は、結局のところ超絶魅力的な人です。
そのような人は、誰とでも仲良しのつもりで誰とも深く繋がっていないタイプの人と比べ、圧倒的に多くの支援を受けることができるでしょう。
つまり、『不完全な大人でもいいよ!』とか、『自分にできる方法で挨拶しよう!』とか、『1~2人の大親友を作ろう!』とか言えばいいのに、学校現場では、そんな現実的なことは言ってくれないわけです。
なのに、なぜインクルーシブ教育への取り組みに関してだけは、こうも積極的で圧倒的で感動的なまでに理想を語らないのか。
答えは単純で、教師側に降りかかってくる問題であるからでしょう。
学校現場でのストーリー展開においては、主人公は常に教師側であるため、どうしても現実的で封建的な分離教育が推進されてしまいます。
それどころか、分離教育こそが、障害者にとってのより良い学習環境である! という理論にまですり替えられることもあります。
それ、余計なお世話ですから。
特定の気になる子どもを特別な目で見たり、または無自覚な差別の目で見るのは、もうやめませんか?
全ての子どもが主人公であれば、全ての子どもに同じように手がかかるし、全ての子どもに同じように手がかからないのですから。

それでも特別支援学校を選んだ理由

個人的な理想を言わせてもらえば、インクルーシブ教育の理念が世の中に浸透し、実現してほしいと本気で思っています。
ではなぜ、太郎の就学先として、特別支援学校という分離教育の場を選んだのか?
その答えも単純です。
まずは、障害特性についての専門性を欠く可能性がある(担当の先生による能力差が大きい)ことを懸念して『特別支援学級』を選択肢から外し…
次に、就学相談会にて、インクルーシブ教育を推進するつもりが無いことを知ってしまった『通常学級』を選択肢から外し…
結果として、ギフテッドや 2E 教育を実施できる可能性が高いという理由だけで『特別支援学校』を選択するに至っています。
個別の能力を伸ばすための環境整備ができていない中で、太郎を通常学級に行かせ、画一的な価値観を刷り込ませることは、僕が推し進める『変人育成計画』の大きな妨げとなるわけです。

では、特別支援学校であれば、個別の能力を究極まで尖らせた変人を、高確率で育成できるのでしょうか。
一般的な特別支援学校での教育がどうなっているのかというと、定型発達の状態にできるだけ近付きたいと願っている児童や保護者の要望に応えるため、福祉制度が未来永劫存在するはずだという前提のもとに、画一的な職業教育を行なうことが一般的となっています。
なぜなら、本人の特性や能力に関係無く、B型作業所か、できればA型作業所、可能であれば障害者雇用制度の中で一般就労を目指す(職種にはこだわらず、モチベーションはお金)というのが、多くの当事者にとっての教育的ニーズであったり、なんとなくそう信じ込んでいるだけの場合が多いからです。
もうひとつの理由は、教師などの支援者側が、多様な価値感に触れながら社会をサイバルした経験(例えば起業したり、世界中を貧乏旅行したり)が無いため、定型発達者のルールの中においての最善策を選択せざるを得ないという現状もあります。

一方で、将来のビジョンを明確に描けている場合(それが就労を意識したものであれば)には、その個別の教育的ニーズに対して、必要な支援を行なうことができるようになっているのが、特別支援学校の本来の特徴であり魅力であるといえます。
あるあるな例を挙げるとすれば、将来は宇宙飛行士になるんだ! とか、チャンネル登録数1000万のユーチューバーになるんだ! とかいう明確なビジョンさえあれば、その実現に向けた実践的な取り組みが可能であり、それができる唯一の公立学校が、特別支援学校ということになります。
そう考えれば、特別支援学校って、なんかワクワクできる場所のような気がしてきませんか?

未来へ向けての僕の教育

通常学級の授業において、色弱の子どもを無視したローテクな負の遺産である『黒板』をメインツールとして使い、ペーパーテスト中心の暗記型教育から抜け出せていないのを横目に、僕は STEAM 中心の教育で、確実に20年後を生きるための力を太郎に付けさせます。
だからこそ、今の僕にとっては、ひとまずインクルーシブ教育はどうでもいいし、障害の定義は医学モデル万歳だし、通常学級においての20世紀型教育サイコー! と割り切ることができるのだと思います。
もちろん協働する力などのコミュニケーション力は必要であり、それに関しては通常学級のほうが遥かに学びやすいのですが、それらは圧倒的な能力さえ持っていれば、周囲のサポートによってなんとかなると同時に、テクノロジーの力によって解決しやすいジャンルでもあります。
それよりも、非認知的スキルなど、今のうちにしか伸ばせない能力に着目し、興味のあることに対して主体的に取り組める環境を整備することのほうが大事です。
一般的なステレオタイプに惑わされず、太郎の一点突破型の能力を究極まで尖らせることに集中するという教育スタイルは、一か八かの博打をしようというわけではありません。
僕にとっては最も実践しやすく、確実に未来を生きるための力に繋がるような手段を実行しているだけなのです。

結局どっちを選ぶべきか?

結局のところ、『インクルーシブ教育』も『特別支援教育』も、誰もが能力を発揮できる共生社会を目指そうとはしているのですが、その手段はかなり異なっているということが見えてきたのではないでしょうか。
マクロな視点で見れば『インクルーシブ教育』、ミクロな視点で見れば『特別支援教育』が理想的な教育環境として認識されやすい傾向があるのではないかと、個人的には思います。
もちろん、どちらが良いというものでもありません。
ただ、全ての子どもが通常学級で学ぶことを推進しつつ、発達障害などのある子どもを別の場所で学ぶよう推進するというのは、さすがに無理があるというか、説得力ゼロですよね。
公務員である教師の雇用を守らなければならないなど、大きな変革をやりにくい状況が存在するのもよくわかるので、せめて20年後ぐらいには… いやいや、10年後ぐらいには…
完全なインクルーシブ教育が実現できていればいいなぁと、個人的には思います。

就学先で悩まれている方々へ

太郎が通う特別支援学校では、次年度の転入学希望者を対象とした『就学相談会』が数日前に開催されていました。
もうそんな時期なんですね…
地域の小学校の通常学級にするか、地域の小学校の特別支援学級にするか、特別支援学校にするか…
やはり、みなさん悩まれますよね。
僕も太郎の就学先をどうするかで悩んでいた記憶はありますが、『太郎の就学先について』でも書いたように、去年の今頃には既に究極の変人を目指すというビジョンを思い描いていたようです。

僕の場合は、多くの人とは異なるビジョンを思い描いているし、周囲の価値観に対して無関心であるという自覚も多少はあるわけで、僕のやり方が多くの人にとっての参考になるなどとは1ミリも思っていません。
ただ、就学先選びについてひとことだけ言わせてもらえば、学校生活においての主役は子どもなので、子どもが自ら学びたい! と思えるような環境を選ぶのが一番だと思います。
それが通常学級なのか、支援学級なのか、支援学校なのか、またはフリースクールやホームスクールやインターナショナルスクールなのか、さまざまな選択肢があることを前提に、吟味してみる必要があると思います。
子どもの人生は子どものものなので、子どもがやりたいと思っていることがあれば、親はそれを全身全霊で応援すればよいという、ただそれだけのことです。

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