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コラム

No.18 それは合理的配慮ではありません!

地域の学校で合理的配慮が提供されるかどうかは、その市町村の教育委員会が、「合理的配慮」を正確に理解しているかどうかが鍵です。
今回は、鳥栖市教育委員会を例に、インクルーシブ教育を語る上で欠かすことのできない「合理的配慮」が正確に理解され、子ども達にとって理想的なかたちで提供されているのかどうかを考察してみます。

まずは多様性を受け入れよう

地域の子ども達を一定数集めれば、そこに多様性が生まれるのは当然のことです。
その当然の環境の中で、子ども達の個性を伸ばしていく方法を模索するのが公教育というものでしょう。
ところが、現在の公教育は、画一性や同質性を過剰に重視し、多様性があることを不自然なことと捉え、「多様な学びの場へ繋げる」という大義名分のもと、学校の都合にそぐわない子ども達を分離させています。
例えば、授業中に席を離れてしまうという「問題行動」があった場合、その責任は子どもの中にあると捉え、矯正させることで解決しようとする事例があまりにも多すぎます。
いやいや、そもそも問題行動は子どもの責任なのだから、子どもに変化を求めるのが当然だろう、という反論はもちろんあるでしょう。
ところが、そう考えているそこのあなた! あなたの価値観は既に時代遅れなのです!
その価値観をゴリ押しした場合、「子どもの権利条約」や、障害の有無によっては「障害者権利条約」などの国際法違反となる場合があるので注意してくださいね!
教育現場が多様性を否定しつつ、授業の中で SDGs を語るとか、もうホント皮肉なものです。

さて、100歩譲って、問題行動の責任が全て子どもの側にあると仮定してみましょう… いやあるはず無いのですが、仮にあるとした場合の話です。
そのような環境では、その子どもは非常に大きな困難を抱えることになります。
その困難を解消するためには、少なくとも合理的配慮が提供される必要があります。
ところが、多様性が重視される環境では合理的配慮が提供されやすいのですが、同質性が重視される環境では合理的配慮が提供されにくいという現実があります。
前述したように、教育委員会が多様性を認め、合理的配慮について正確に理解できているかどうかが、すべての子ども達の学校生活の質を大きく左右することになるのです。
では、鳥栖市教育委員会の場合はどうなっているのでしょうか。
鳥栖市教育委員会が合理的配慮をどのように解釈しているのかどうかは、3月の鳥栖市議会一般質問の内容を確認すれば見えてきます。

この質疑応答の資料をもとに、答弁の内容を分析しながら、僕の率直な感想を書いてみます。

鳥栖市教育委員会の見解と問題点

まず、鳥栖市議会議員による、以下のような質問がありました。

市議会議員による質問:
共に学び成長する子ども条例(議員提案条例)4条3項の「教育環境における合理的配慮」は、子ども・保護者の意向を尊重するものになっているのか。

質問の内容をひとことで言えば、学校の中で合理的配慮が適切に提供されているかどうかを確認しているわけですね。
これに対しての、教育長の答弁が以下になります。

教育長による答弁:
鳥栖市は、条例に則り、全ての子どもたちが共に学び成長できる体制づくりに向けて、各学校で様々な合理的配慮について、取組を行っております。
施設・設備等のハード面に関しましては、
・車いす等を使用できるスロープやエレベーターの設置
・階段昇降車の配備
・電子黒板整備や一人一台のICT端末の配置
・個別学習や情緒安定のためのスペースや教室の確保
また、人的な支援といたしましても、障害の状態に応じた専門性を有する教員、日常生活の介助及び安全面を支援する人材等を配置いたしております。

この答弁に赤を入れさせてもらうなら、スロープやエレベーターや階段昇降車の配備は、さまざまな子ども達の通学が前提となる地域の小中学校においては、当然やっておくべき『バリアフリー化』です。
本来ならば、何十年も前から当然のように整備されていてもおかしくないのですが…
一人一台のICT端末の配備に関しては、少し前に「GIGAスクール構想に参加するつもりは無い」と発言していたとは思えないほどの豹変ぶりです。

一応確認しておきますが、合理的配慮とは、障害のある児童生徒または学生本人からの要望があった際などに、個別の案件に対して行われる環境調整であって、一般的なバリアフリー化や、全ての子どもを対象としているICT教育を指すものではありません。
つまり、質問の答えになっていないという点では、残念な答弁です。
意図的に話をすり替えているのか、誠実に答えたつもりで知識不足なだけなのかは、この答弁からは判断できません。
仮に誠実に答えたつもりで知識不足なだけであれば、時代にマッチした教育観を獲得できるよう、常に知識をアップデートさせる必要があります。

子ども達の教育全般のために予算を使うことを、いっさいがっさい合理的配慮と呼ぶのであれば、学校の自己評価が異様に高くなるのも頷けます。
自動車の運転技術に関するアンケートでは、若者ほど運転に自信が無く、高齢者ほど運転に自信があるという、不思議な統計結果があります。
また、仕事ができる人ほど自分の生産性に自信が無く、仕事ができない人ほど自分の生産性に自信があるという、不思議な統計結果もあります。
このような統計に照らし合わせてみると、合理的配慮をきっちり理解して実施している人ほど自らの力不足を感じていて、合理的配慮を理解しないまま実施したつもりになっている人ほど、やたらと自己評価が高くなるという現状があるのではないかと疑ってしまいます。

さて、答弁はさらに続きます。

教育長による答弁:
また、幼児期からの就学相談体制の構築につきましても、いち早く取り組んでおり、鳥栖市就学指導委員会、幼保小連絡協議会等による、教育、福祉、医療が連携した適切な就学を進め、子どもや保護者の意向を尊重した合理的配慮を提供し、そのニーズに対応してまいりました。

この答弁に赤を入れさせてもらうなら、文章の前半と後半で話が繋がっていません。
幼児期からの就学相談体制を構築することで、適切な就学を進めているというところまでは読み取ることができるのですが、そこから合理的配慮を提供したという話にどのようして繋がったのかがさっぱりわかりません。
一応確認しておきますが、就学相談を充実させたり、各機関と連携する業務のことを合理的配慮とはいいません。

鳥栖市教育委員会は、第11回鳥栖市総合教育会議の中で、今回の条例が議題に上がった際、インクルーシブ教育に一定の理解を示しつつも、特別支援学校に行くべき子ども達が特別支援学級に来て、特別支援学級に行くべき子ども達が通常学級に来る事例が増えることを問題視しています。
その結果、あくまでも『適正就学』を目指すと宣言しています。
この考え方は一貫していて、令和3年5月の教育委員会会議でも、教育委員会が目指す方向性を確認することができます。
では、教育委員会が言う『適正就学』とはいったい何なのでしょう?
その『適正』の定義とはいったい何なのでしょう?
教師や医師や教育学部の教授など、未来の社会状況や現在のテクノロジーについて無知な人達が、「この子は支援学級が適正!」と宣言することが『適正』の定義なのであれば、時代遅れと言わざるを得ません。

ちなみに、長男と次男を特別支援学校に通わせている僕の感覚からすると、教育委員会の感覚とは全く逆です。
通常学級の子ども達が特別支援学級に追いやられ、特別支援学級の子ども達が特別支援学校に追いやられている事例のほうが圧倒的に多く、これは統計結果からも明らかです。
特別支援学校の児童生徒ひとり当たりにかかる公的教育費は、通常学級の児童生徒の8倍ほどなので、今のやり方を続けていては、「日本は諸外国と比べて教育にかける予算が少なすぎる!」と嘆いている教師が、この先もずっと嘆き続けることになるでしょう。

このことからもわかるように、結局のところ鳥栖市教育委員会は「インクルーシブ教育やるつもりないじゃん!」と言われても仕方がない気がします。

さて、答弁はさらに続きます。

教育長による答弁:
また、就学後も通級指導教室、特別支援学級、特別支援学校といった連続性のある「多様な学びの場」に繋げると共に、特別支援学校との居住地交流学習、小中一貫教育による特別支援教育部会の設置及び中学校区での交流、「にじいろ相談室」での支援、特別支援教育支援員の配置、医療的ケアを必要とする児童生徒への支援等といった環境整備を推進しております。

この答弁に赤を入れさせてもらうなら、繰り返すようですが、就学先を決定したり転入の手続きを行なう業務や、居住地校交流などの制度上の事業は合理的配慮ではありません。
また、分離教育をやっているからこそ、交流事業があるわけで、子ども達を謎の基準によって分断させることはインクルーシブ教育ではありません。

外務省と文科省は、連続性のある多様な学びの場があるということを理由に、特別支援教育はインクルーシブ教育に含まれると主張しているわけですが、残念ながら連続性のある多様な学びの場といえるものは見当たりません。
教育内容が限定された、3つの画一的な学びの場があるだけです。
フリースクールやホームスクールなど、学校以外での学びの場が、日本の教育史上最高の盛り上がりを見せ、「教育機会確保法」まで誕生している現状を見れば、公教育の中に多様な学びの場が無いことは一目瞭然であり、多様な学びの場を民間が穴埋めしているというのが現状です。
学校以外での学びの場にも予算を付けて、公教育としての多様な学びの場を拡張させるのであれば、まだ理解はできるのですが、たった3つしかない画一的な学びの場のことを、「連続性のある多様な学びの場」と主張するのは、さすがに無理があるでしょう。
そもそも、多様性を肯定するたったひとつの学びの場があれば済む話であり、それこそがインクルーシブ教育なのです。

ちなみに、インクルーシブ教育を行なう通常学級では、特別扱いは存在しないため、合理的配慮が提供されます。
一方で特別支援教育の場合は、そもそも特別な支援が可能なので、合理的配慮は本来なら存在しません。
にもかかわらず、「個別の教育支援計画」では、「具体的な支援内容」とは別に「合理的配慮」も記入するようになっています。
その結果、「具体的な支援内容」と「合理的配慮」の項目は、ほぼ同じ内容になります。
なぜこのようなややこしい形式になっているのでしょうか。
理由は簡単です。
合理的配慮は、分離されない環境において提供されるものなので、特別支援の現場でも合理的配慮が提供されているということにしなければ(例え書類上のことであっても)、分離教育は行なっていないとする文科省の主張とは辻褄が合いません。

特別支援教育がインクルーシブ教育に含まれると主張するためには、絶妙な言い訳を作り、その言い訳を正当化するために大量の言い訳を作り、指数関数的に増え続ける言い訳を論理的に管理しなければならないはずで、かなりの記憶力の持ち主でなければ、この業務を担当することはできないでしょう。
大変だコリャ。

最後に、以下のように締めくくっています。

教育長による答弁:
鳥栖市は、今後も、幼児期から長期に渡って子どもたちを見つめ、子ども一人一人の能力に応じた十分な学びが保証されることを前提に、できる限り「共に学ぶ」ことを追求するインクルーシブ教育システムの構築に努めてまいります。

「できる限り…」
なかなか便利な言葉ですね。

実は、未来志向の教育について語ると、どうしても教育委員会の教育観を否定するような内容になってしまいがちなので、非常に申し訳ないと思っているのです。
今後は、できる限り、教育委員会を肯定するよう努めてまいります。

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